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1990年の6月、いよいよ設計も一段落し、新技術導入部分のテストプログラムが始まった。
まず、「市原主任をメインに開発してくれ」という要望があったので、プログラムの研修をかねながらテーマを与えた。
彼の担当は、グラフィック描画処理とD.B.のリンク部分だ。
私は、次期DrawingのD.B.に画期的な仕組みを持たせた。
それは、画面上に表示されているエレメント情報と、D.B.の図形情報をリンクさせる方法だ。
当時のパソコンではCPUパワーが貧弱なため、この方法なら検索速度を数百倍に引き上げられる。
ただし、メモリの消費も大きくなるため、物理メモリのスワップ技術(一般的なスワップではない)も新規に設計した。
また、当時使用され始めたプロテクトメモリの制御にも着手した。
詳しくは触れないが、ユーザーが画面上のエレメントを操作したいと思った瞬間に、全D.B.内の図形情報の検索と修正が同時に行われ、ユーザーは裏で推論しているユーザーのしたいことのパターンが、実は操作前に終了している事に気がつかない。
その為のテスト部分を市川主任に担当させた。
彼はブツブツと声に出して考えるのが癖で、1つ1つ確認しながら作業を進めた。
私にすれば、テストケースなので、動作の具合を早く知りたいのだが、新人なのでそうもいかない。
結局、大部分の主要モジュールを私が作成し、それを理解させて作業させるという、1人で開発するより多くの時間を彼に費やした。
それから1ヶ月半後、徳田の投入となった。
最初、彼の担当部分の設計は私の中で間に合っておらず、彼には以前のDrawingのモジュール構造図を清書させていた。
すると、徳田はつまらなそうに作業をし、暇を見てはテストプログラムを自分で書き始めていた。
その様子を見ていた私は、入社時の自分を思いだし、こいつは使えると判断した。
しばらくして、彼の担当部分の設計が終了し、作業を示唆した。
彼の担当は推論部分の担当で、市原担当のD.B.情報候補群にある図形を抽出して、ユーザーが何をしたいのか?の推論を行う。
彼は市原と違い、私の仕様書を読んでさっさと作業を進める。しかも早い。
やはり使える。
こうなると後の作業は楽だ。私は自分のイメージを彼に伝えるだけで、彼が独自で判断し作業を進めてくれる。
「ついに凄い奴が入社してきたな」と思った。
ただ、彼には協調性が無かった。常に周りを見下し、何時も単独行動だ。唯一、私と湯川には話しかけてきたが…。
私は、それでも良いと思った。この様な人物が増えれば、会社もDrawingもうまく行くだろうと思った。
作業目標は、12月にサンシャインで開催されるCADショー、AECだ。
このイベントはCADメーカーにとって大々的に宣伝できる重要なイベントだ。
8月の下旬になると大抵の設計も終了し、一気に仕上げる力仕事の作業が続いた。
当時、私には彼女もいたが、8月になってから会っていない。
いや、12月まで会えなかった。本当である。
それはそうだ、1週間のうち4日は会社に寝泊りしていたからだ。
椅子を横に並べて寝ているもの、机の上に寝ているもの、寝袋を持参するもの、まぁ色々だ。
これで市原達に残業の癖をつけてしまったと後に後悔もした。元来、私は残業なんてしないのだ。
このころ単純作業に突入してきたので、新人を2名プロジェクトに投入。
結局は私以外、全て新人をDrawingに投入したのだ(これは2倍疲れた)。
唯一、徳田が居てくれたのが不幸中の幸いだった。
社内にとってのDrawing開発チームは特例扱いでもあった。
会社に寝泊りしているせいもあるが、昼頃になって起き出す人もいる(本来のソフト会社の風景ともいえる)。以前のイーストでは考えられないことだ。
私のチームでは時間の自由を与えた。
担当部分が私の工程通りに進めば休暇も自由にしてやった。そのかわり、遅れたら悲惨だけど。
私はこの方針には誰にも文句はいわせなかった。
私に従って作業している人は、どうだったのかわからないが、私はこの時期一番充実していたのではないだろうか?
アイディアが次々に沸いてきて、キーボードを打つ手も軽やか、新人への指示や育成も苦にはならない。
はっきりいって、彼女なんかどうでも良かったかもしれない。
もちろん作業終了後に彼女に会ったが、会わない癖が抜けず次第に自然消滅だ。
それから私はこれ以降、数年は女性に興味が無くなった。いや、変な意味ではなく仕事が楽しくなったのだ。
そんなわけで、12月のAECギリギリまで作業は続いた。
ここからは営業の出番だ。とにかく出来あがったプログラムを渡し、開発陣一同も展示準備へと向かう。
翌日、いよいよ本番。
心の中で、「落ちるなよ」と思いながら、営業の行うデモを見ている。
しばらくは順調に動作しているように見えていたが、次第に動作が不調になってくる。
そして、落ちた…。
プログラムが落ちると、誰が担当した場所か開発に関係した人にはわかる。
皆口々に、「あー、俺のところだ」と言い、「あそこがおかしいのかな?」なんて感想を言う。
私はそんな彼らを見ていて、良く頑張って、ここまで来たなと、感慨もひとしおだった。思えば半年前まで皆新人だったんだ。
その前に、モジュール分割がきっちりしていて、各部の依存性を弱めた設計にしたおかげもある。自己満足だ。
皆、自分の担当部分が落ちるとショーの最中に自身でデモをし、おかしい個所の辺りをつけて会社に戻り、プログラム修正をする。
そして、無事に修正が済むと、デモのソフトを全て交換して再び営業がお客様にデモをする。何度かその繰り返しを経て強度の高いシステムへとなっていった。
開発者は無意識のうちに落ちる動作というものをしなくなるらしい、そんな時一般ユーザーの使用は大変勉強になる。
このときまでは皆、意欲に燃えた技術者の顔だった。
Drawing開発に尽力してくれた人たちに感謝 和田課長
全体設計と技術、プログラム指導。
しかし、各部の困ったときの助っ人が一番の担当かも?市原主任
描画エレメントとD.B.全般。
推論が入るD.B.なので、D.B.操作は複雑さを極めていた。その分バグも多かった。
その他CAD的な機能の一部。徳田
ハードウェア操作と認識、推論。
開発後期は、和田が忙しく、手に及ばない部分の助っ人担当もこなしてくれた。
その他CAD的な機能の一部。高卒したばかりの新人2名
数学演算、メニュー等のライブラリを和田が提供し仕上げる。
出力装置の充実や製品のデバッグ等もこなしてくれた(誰かがやらなければいけない)。
その他CAD的な機能の一部。湯川営業
Drawingの前バージョンに関するユーザーの要望を簡潔にまとめて提供。
操作性等の的確な意見を数々提案してくれ、設計に貢献(酒場での議論が多かった)。とにかく私の役目は終わった。
後は長井部長が製品を引き継ぐだろう。
全てのモジュールは簡単に取替えが効くように設計したし、メニューもビルダーを完備し簡単に作成できる。
ノウハウは市原が知っているし、新人でもメンテナンスが出来るように仕上げた。
このときの私は、システム耐久度を3年から4年と想定したので、「そのときまで任せたよ」という思いでいっぱいだった。
この作業を通して、皆の(特に徳田の)能力評価と待遇改善を社長以下に進言して、私のDrawing新規開発は幕を閉じた。
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