第二章


Drawing新バージョン前夜

市原一郎 イースト開発部主任 事務所を移転した年の1990年、その春に4人の新人が入社してきた。
1人は私と同じ年の市原一郎と言う人物だ。
彼はこの春まで学生をしており、実質的には新人だ。会社は、土木科卒業という触れ込みに期待したらしい。
例によって、曽根社長が私のところにやってきて、「和田君、今度すごく出来る人が入るよ、大丈夫?」なんて聞いてくる。
いつもの恒例行事だ。
「社長は人を見る目が無いからね、大丈夫ですよ」といつものごとく私も返答した。
彼は現在私が設計を進めている、「Drawingの次期バージョンに投入するつもりだ」と曽根社長がいってきた。
木藤専務も近寄ってきて、「今度のバージョンから大々的に営業をかけるから」と、頷きながら話してくる。
曽根社長が近くにいる時のいつもの癖だ。

徳田斉昭 イースト開発部主任 もう1人、新人の徳田斉昭という人物も「次期バージョンに投入するつもりだ」と、曽根社長は続けた。
特に彼のことは話をしなかったが、中途採用扱いらしい。
プログラム経験者で、COBOLのプログラムを経験したということだ。
年齢は私より1歳下。
そう、社長の年功序列の信仰がまだここにある。私に対抗する人物を年齢によって判断しているのだ。
同じ年の市原に、おそらく社長は気を遣っている。
しかし、1歳下の徳田に対しては余裕のある態度をしている。
今回は社内での私の扱い(役職)にも気を使っているようである。なんてことだ、今度は私の立場に社長は気を使っているのである。
私としては、実力があれば、私より年下であろうと尊敬できるし、下に就く事もいとわない。
自分としては、そうならないように努力するだけだ。しかも経験も積んでいる。

 社長とすれば、私と同じ年の市原を同じ役職にしたいのだ。
しかし、若い社員が多くなってくるに従って(もう大抵の若手も役職が付いている)、役職の空きが無くなっている。
社員全員が役付きの立場になってしまう。そろそろ矛盾が生じているのだ。
 結局、市原は主任扱いで入社させる事にしたようだ。それに伴い、私は社内でも異例の課長となった。
同期入社の人は現在主任だ。それに昔から居た先輩社員(年下)も主任だ。年功序列も少し崩れた。
矛盾もあった。会社としては私の昇進とともに長井課長を部長代理に昇進するしか手が無くなったようである。
技術部(汎用機部隊)も吉田課長が部長代理になった。こちらは順当だろう。
 しかし、7年近く居た吉田部長と、2年しか居ない長井部長は同じ役職なのだ。
しかも技術力も経験も吉田部長のほうが断然上(数十倍だろう)。同じなのは年齢だけ…。
本来は吉田部長が意義を唱えるべきだろうが、前回紹介したように平等主義なので本人が反論しない。
吉田部長が反論しないから周りも従う。まさに悪循環。
私と湯川だけが吉田部長と飲んでいる席で、「もっと矛盾を指摘するべきです」というと、「お前らとは話が合わない」と窘められる。
ここにもイーストの良くいえば和気藹々体質、悪くいえば社会主義的廃退の根本があった。

 さて、Drawingは最初のバージョンから機能を幾つか付加して、Version1.5を現在販売中だ。このVersion1.5がDrawingの基本機能を全て網羅したといっても良い。
そこで私は、「この冬からバージョンアップをしたい」という要望を会社と鈴木建設に出していた。
Drawingのプログラムを全て無くし、仕様書から新規に構築するという、いわゆる新規開発だ。現在のDrawingはプロトタイプ上に構築された機能の集合体だからだ。
そこで、私の考えでは、一度分解して、クリーニングを行い、新しい部品に入れ替え、効率的に新規構築することが新しく創造した製品には必要だと考える。
おそらく、世間でも常識だろうが、イーストでは常識ではない。現状維持が伝統的な常識だ。
もちろんD.B.も新構造、推論機能も新構造、新しい技術の導入、これらは、しばらく私がDrawingを離れていたときに構想していたことだ。
それが春頃になってやっと認められた。
和田信也主任 イースト社員 後日知ったことだが、認められた背景には経緯があった。
それは、日ごろから私は、「5年を目処に会社を辞めて地元に帰る」と公言していたのだ。
5年で地元に会社を設立できる目算が立たなければ時間の無駄なので、地元に帰るつもりだった。
それに、会社にそのことを示唆しておけば自分に優位に作用すると計算してのことだ。
もちろん、会社での自分の位置を確認してのことだった。

 その情報に恐怖した会社のTOPと鈴木建設が、Drawingの技術情報を他人に伝授する目的で仕事を依頼してきた。その証拠に、新規作成のDrawingはモジュール分解が容易なように設計することが条件だった。
「そんなこといわれなくても私の設計はそうなっている」といった記憶がある。
また、「市原君をメインで使ってくれ」とも付け加えられていた。
そして、「Drawingは、長井君の管理に移るから」ともいわれた。
「じゃぁ、私は次に何するの?」と聞くと、「Drawingを応用した人工知能で設計をするシステムがある」といってきた。

 この応用したシステム開発は面白かった…。
簡単にいえば、敷地を入力するとRC構造のビルが自動的に設計されるというシステムだ。
通常、建築設計には様々な規制がある。敷地に対して道路幅が何mなら、斜線制限等で建てられるビルの高さも自然に決まってくる。その他、日照権や容積率等を考慮していくと、敷地に対して建てられるビルの外郭は一定になっていく。
また、水廻り、収まり、ダクト、階段、エレベーターに至るまで、機能性と法律を当てはめていくと内部の設計パターンも自然に絞られていくのだ。
つまり、新しいシステムは、法律や規格部品を知識ベースにして、設計されるRC構造のビルのパターンを数種類に限定し、自動設計しようっていうシステムだ。もちろん本格的な(詳細な)設計はできないが、データは2次使用にまわされ、コンピュータで有効利用される。
このシステムの売りは、ビルを建てたい地主に請負の営業をするときである。なぜなら、営業マンは、周辺地形を入力すれば、建設されるビルの概要がその場で組みあがっていき、テナント料も計算されるという画期的なシステムだからだ。
 Drawingはアイディアの段階から設計者が自らコンピュータにデータを入力できるシステムを目指してある。設計者のラフ画を精緻なデータにする職業のトレースと呼ばれる作業を主な仕事にするCADオペレーターを排除したいシステムだった。
その延長線上に今回の新システムが存在しており、いわば、「RC構造設計ウィザード」のようなシステムだ。
 敷地から収まりまで考慮した基本的な骨格を新システムで自動製図する…そしてDrawingによって更に詳細な設計を設計者自身が作図できる…。
従来のCADの流れでは、設計者のアイディアからコンピュータへのデータに移るまで莫大な時間がかかった。しかし、これらのシステムは時間のかかる間を短縮しようという発想なのだ。
 やがて新システムは徳田の手に移っていき、駐車場からベランダにいたるまで自動設計できるようになった。
だが、未だに日の目を見ていない。何故なら、このシステムは鈴木建設に引き取られ、鈴木建設社内で継続研究されたようだが、時間の経過とともに噂も聞かなくなった…。

 一方、私としては商品となったDrawingをサポートしていく事にもう魅力は無い。それより、新しいものを開発できるほうが面白いと思っていたので、今度の開発を最後にDrawingから離れることを決意した。
 この判断が社長も私も間違っていたと、結果論だが後に気がついた。
何故なら、引き継いだ長井チームは、Drawingを更に良いものにするという創造に欠けていたからだ。
Drawingはリリース当時、「世界初の新方式のCAD」と宣伝していたが、数年後、その製品は古いものへと変わっていた。ただ現状維持をしていただけだ。それがサポート体制といえばそうかもしれない。
しかし、どこかで誰かが創造をしていかなくては新商品もいつかは色あせてしまう。
技術者たるもの、ぬるま湯ではいけないのだ。常に先を見る訓練と意欲も必要だ。

 まぁ、お互い(私と会社側)の理由はどうであれ、利害関係は一致していたので、Drawingの新バージョンにGOがかかった。
営業部も新しい事務所内にショールームを開設し、販売代理店を増やしていった。


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