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北条・今川軍の乱入で吉田大火

北条・今川軍の乱入で吉田大火

北条・今川軍の乱入で吉田大火 天文4年(1535)8月、武田信虎は甲駿国境の万沢口で今川氏輝軍と戦いました。氏輝は北条氏綱に援軍を要請し、8月22日、北条・今川の連合軍は大軍で郡内山中口に押し寄せて来ました。
 これを迎え撃つのは信虎の弟、勝沼五郎信友、小山田信有軍2000の郡内勢でしたが、多勢に無勢の武田軍は大敗、勝沼信友、小山田弾正、部下270余人が戦死。戦火は拡大して上・下吉田が全焼しました。『勝山記』は、「八月廿二日相模ミノ屋形セイツカイ被食候テ、人数二万四千、御方ハ二千計テ小山田殿イクサヲ被成、小山田殿劣ケ被食候テ、弾正殿・大輔殿…打死被食候…其ノ日上吉田焼申候、明ル日下吉田焼申候…」と伝えています。

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