第三章


禁断の果実

曽根昭 イースト社長 1993年度のイーストの売上は予測としても落ちていき、経営者を慌てさせるのに十分な効果があった。
技術部は事務所閉鎖という方法で苦難を乗り切ろうとし、1994年には実際に閉鎖した。
しかし、あまりにも遅すぎた決断と言っても過言ではないだろう。
私の事務所は長井チームを排除すると十分な売上があった。主に鈴木建設と某大手家電メーカーの受注だ。
しかし、長井チームと数字を合わせると悲惨な結果になる。それは徳田にも言えることだった。
いったい長井チームは何をしているんだろう…?
いや、この問題は経営者(曽根社長・木藤専務)と吉田部長がいけない。
無能な管理職(長井部長・本木部長代理・その他)を交代する決断が無いのが一番の原因だ。

 事務所を閉鎖する方針の技術部は来年度から利益が出てくることは判っている。
しかし、実際には技術部に利益が無かった。可能性はあったのだが、仕事を取ってくる営業がいないのだ。
以前は曽根社長が営業をしていたのだが、曽根社長が金策に走るようになると、仕事を持ってくる人がいなくなる。
イーストの社員は、仕事を得て仕事をしているという現実を知らない。社員の誰かが仕事を取ってきたことがあるのだろうか?
「俺は技術者だから…」なんて思いこみ、次の仕事を獲得するように行動をしていない。
思考回路の一方通行だ。大会社じゃないんだから…。
 それはそうと、長井チームには収入の可能性が無い…いや、技術部も現状を認識しない限り可能性が無いのだが…。
そこで営業部を率いる木藤専務は営業マジックでイーストの収支を合わせる作戦に出てきたようだ。
開発部全体の帳尻を合わせるために、無理な営業活動で埋め合わせをしようというのだ。
長井チームをどうにかすれば良いことなのに…。
もちろん、既に手遅れの状態に当時のイーストがいたこともあるのだが…。
こんなことで立ち直っても社員の体質が変わらないんじゃ意味が無い。下手な延命は社員に事実を隠しているだけだ。

湯川祐次 イースト営業 ここで木藤専務の行った営業活動を間近で見ていた湯川君に再び登場願おう。
「湯川君、当時の状況を話してよ…」

と言うわけで、再び湯川の登場である。

 当時、Drawingの販売代理店として契約している会社は全国に約20社ほどあった。
しかし、実際にDrawingの販売活動をおこなっている会社は年を追うごとに減り、1993年の後半ともなるとわずかに5社あるかないかになった。
言わずと知れた、バグ大量生産のおかげで代理店がやる気をなくしたのである。
我が営業部はバグの対応に追われていたこともあり、当然売上なんて伸びるわけがなかった。

 そんな中、イーストソフトの延命に貢献した会社がある。それが南山社長の(株)データトップだ。
南山社長は、日本中を騒がせた証券疑惑を起こした大手グループ会社の取締役だったが、起訴を逃れるためデータ・トップを設立し、無関係を装った。
そのグループ会社の数人は逮捕され、国会の証人喚問にも出た。関与した某国会議員も同様に逮捕された。
南山修 データトップ社長その会社(データトップ)の社員といえば、電話番の女の子しかいないのだが、南山社長は昔の自分の人脈を生かして販売力のある2次店を開拓したのだ。
その2次店とは、コピー機やFAXの販売で有名な某大手事務用品メーカーの(株)ホーユーである。
 (株)ホーユーには全国すべての県に販売やサポートを専門とした子会社があり、DrawingのようなCADソフトを専門に扱う部門も持っている。
これに目を付けた南山社長はまず、親会社である(株)ホーユーの重役に代理店になってくれと話を持っていき、トップダウンで、とりあえず東京ホーユー(東京子会社)で扱ってみようということになった。
さすがに元大手グループ会社の取締役だったことはある。

 東京ホーユーでは月に数回、フェアーと呼ばれる社内展示会が開かれる。
OA機器などの新商品発表をかねて顧客の購買意欲を駆り立てる目的だ。
この会場にDrawingも出品し、デモをおこなったり、実際に操作させたりして、Drawingの存在をアピールしていった。
評判は上々で、後日客先にて再デモをおこない、販売にまでこぎ着けるという流れができ上がった。
それまであまり知られていなかったDrawingも、圧倒的な顧客数と販売力のおかげで、簡単に操作できるCADがあるらしいという噂が広がった。

 こうなると、売上目標の達成に命を燃やす東京ホーユーの営業マンにとっては、とにかく売りやすい商品だ!という印象を得たらしく、図面だけに限らず絵を描いている職業の顧客をやたらとデモに誘い出した。
デモを担当するのは我々営業部と南山社長だ。
この時、イーストの営業部には私と木藤専務、他にもう1人の合計3人しかいなかったため、午前1件と午後2件というめまぐるしいスケジュールの毎日が続いていた。
デモの成果は如実に現れ、1年もしない間に東京ホーユーだけで100セット以上販売した。
この営業力のおかげでイーストの寿命が2年延びることになる。
相変わらずバグが多いDrawingだが、東京ホーユーにとってはそんなことお構いなし、売った後のサポートはすべてイーストまかせという考えだろうか…販売台数が増えるほど私の仕事も増えていった。

木藤浩次 イースト専務 東京ホーユーがDrawingを売りやすかった理由は他にもある。
それは、仕切の安さだ。通常、Drawingを代理店に卸す金額は定価の60%と決まっている。
これはどの代理店でも一律で契約しているのだが、データトップへは定価の50%で卸していた。
データトップはほとんど儲けを取らずに東京ホーユーへ卸していたため、実際の販売価格はとびきり安かったのだ。
他の代理店に知れたら訴訟問題にもなりかねないほど、かなりヤバイ話だが、木藤専務の独断で決めてしまった。
例によって居酒屋での営業会議で私に事前の相談はあったが、初めから安く卸すことを頭の中で決めていて、お前(湯川)とも相談して、2人で決めたと、何かあったときに言い訳するつもりだったのだろう。
まぁイーストの赤字が進む中、1台でも多く売りたいが為のやむを得ない判断かも知れないが、もちろん私は反対した。

 反対したには深い理由がある…。
隠岐敬一郎 センチュリー社長 データトップという会社はもともとセンチュリーの代理店(つまりイーストから見れば2次店)だった。
センチュリーといえば、脳死状態のイーストにタバスコを飲ませて生き返らせようとして、即死させた張本人、隠岐の会社だ。
販売元のイーストはセンチュリーと代理店契約し、代理店のセンチュリーはデータトップと2次店契約をしていた(東京ホーユーはイーストから見れば3次店にあたる)。
だからイーストとデータトップとは直接商売することはできないのだが、南山社長が木藤専務を信用して(株)ホーユーとの販売の相談を持ち込んだ。
そしてこれ幸いに、木藤専務は直接取り引きしてしまったのである。つまり、飛び越しの契約である。
毎度の事ながら後先を考えずに目先の金に走ってしまう馬鹿さ加減にはあきれてしまう。
 東京ホーユーはセンチュリーへもコピー機やFAXを販売していたので、この件がいつバレてもおかしくない状態だったことを私は知っていた。
もちろんそんな話に耳を貸す木藤専務ではない。
 ついにイーストは、禁断の果実を食べてしまった。
これがイーストと隠岐社長を更に強く結びつける一歩だったのだ。

南山社長データトップ隠岐社長の率いるセンチュリーの代理店になる(このころ隠岐社長に借金?)。
イースト鈴木建設の後ろ盾を得て、Drawing販売総代理店になる(ロイヤルティー20%)。
センチュリーイーストの代理店になる(仕切り60%)。
データトップが大手事務用品メーカーの東京ホーユーを代理店にする。
イーストデータトップに直接Drawingを卸し(仕切り50%)、データトップ東京ホーユーにDrawingをそのまま渡す。


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