第二章


わがまま社員

吉田賢治 イースト技術部部長 吉田部長は、過去において時々出社拒否の病気が出る。
部長職になってから、その病気は徐々に収まったが、ひどいときには1週間以上も会社に現れなかった。もちろん無断欠勤だ。
吉田部長の口癖は、「社長に一生ついていく」なのだが、それには一生ついていくと言わしめる事件があったのだ。
それは、私が入社する前の話…。
当時、吉田部長はモノレール管制システムの仕事のため、イーストから某所に出向へ行っていた。
それは吉田部長がイーストに飲み屋さんで誘われてからの初めての仕事だった。吉田部長も飲み屋で勧誘されていたのだ。
 そこで当時の吉田部長は、いつもの病気がでて、出向を2週間以上もすっぽかしたらしい。通常なら、信頼を失い、即刻解雇だろうが、当時の曽根社長は相手先に謝って回り、吉田部長の自宅にまで説得に来たということだ。
その時の説得のしかた、「君がいなければ駄目だ」に感動して、吉田部長は「この人に一生ついていく」と思ったのだ。
この話は、例によって酔楽で吉田部長が語ってくれた話だ。

 入社当時、吉田部長が長期休暇している事実を私は知らなかったが、水上部長が「あいつまたか。しょうがないなぁ」と困っていたので、私にもなんとなくわかってきた。
それから、吉田部長が社内で開発するようになって、出社していない事実は更に良くわかるようになってきた。
突然こなくなるのだ。
 「明日は来るかな?」と思っていても、何時の間にか1週間は過ぎている。
会社も別にとがめることをしない。唯一、水上部長が小言をいう程度である。おそらく、仕事に穴をあけたことは無いので、なんとなく許されてきたのだろう。
確かに技術力はあるのだ。

 一方、技術部と営業部が本社事務所を離れていってから、長井部長が本社事務所を取り仕切るようになっていた。しかしながら、社長と木藤専務は社長室にこもりっきりで、指示は私と徳田に直接出す。つまり私と徳田は、社長と木藤専務の直属のようなものだ。仕事もこの2人から直接下りてくる。
そこで私と徳田は、時には一緒に、時にはチームを編成して難問に当たるという傭兵部隊のような役割を担った。
まぁ、会社に必要な便利屋さんだ。もちろん、継続されている自分の仕事もある。

 長井部長チームはというと、どこからみても遊んでいるようにしか見えない。いや、本人たちは遊んでいると思っていないだろう。それはそうだ。朝から晩までパソコンの前にへばりついて作業しているからだ。しかもチーム全ての人間がだ。このころDrawingチームは長井部長を含めて6名が任にあたっていた。仕様検討も思考もディバッグもパソコンの前だ。ただ1日中エディタを操作する姿が観察できる。

 できる人間ならそれも良い。例えば徳田の場合なんかそうだ。
彼がパソコンの前に座ると無駄が無い。その場でシステムが出来あがっていく。私なんかもそうだ。これはもう一つのセンスで、出来ない人には私達が頭の中でマルチにコンピュータが動作しているなんて想像できないだろう。
それを他の人が見ると、自分にも出来ると勘違いする。でも、他の人はエディタ上に流れるソースの全てが把握できていない。
徳田斉昭 イースト開発部単に座っている理由は、すぐに目で確認できるという安心感があるために過ぎない。
センスがあれば、パソコンが無くてもソースの繋がりと共に、あらゆる個所のプログラムがマルチで頭に浮かんでくるのだ。
だから、キーボードを打つ瞬間にはもう既に先のことを考えている。問題なのは、キーボードを打つ手が間に合わないことだ。
エディタを、ぼぅっと見ているのとはわけがちがう。
この差は大変大きい。彼らが1日かかる作業なら、私や徳田は1時間もあれば十分だ。
しかも、知的作業が入ると更に差は歴然となる。彼らには作業を達成できないだろう。つまり、ゼロはいくら数字をかけてもゼロだ。

 徳田は、数学知識以外の分野では私より頭の回転が速かった。おしいことだ。徳田に設計能力もあったらと、いつも私は思っていた。しかし、コーダーとしては一流だろう。
彼の唯一の欠点は協調性が無いことだ。長井Drawingチームとは口もきかない。
完全に彼らを見下していた。気持ちはわからないでもないが、私が「手伝おうよ」と言わなければ完全に彼らと他人のふりができる。
徳田の趣味はバイクだ。トレーラーで箱根に乗り付け、バイクをセッティングし、峠を攻めるというものだ。
普段は慎重で完璧さを求める彼に命知らずの一面があったとは…。
しかし本人いわく、「完璧な操作をすれば危険じゃない」だそうだ。

 さて私はというと、吉田部長がかつて行っていたように会社へ行かなくなった。
私が会社に行かなくなった理由だが、やはり長井部長チームの体制が気にいらなくなったのだろう。
彼らの数倍仕事をこなしても、彼らと給与は変わらない。いや、むしろ残業しない分少ないことがあった。
 元来私は、そのようなことは気にしないのだが、彼らが努力をしない姿勢だけは許せなかった。技術者としてだ。
その鬱積が「仕事はきちんと納めて更にその倍仕事をする。その代わり、給料なんて要らないから自由に行動してやる」と思いこみ、彼らをうらやましさで見返したかったのだ。
もちろん詭弁に過ぎないことは十分わかっている。しかも、吉田部長が先例を作ってあるので、会社の対応もだいたいわかってのことだ。
 そこで私は、自分の仕事はもちろん、社長や木藤専務の特命の仕事を終えると、残った日にちは自主休暇にした。もちろん会社は認めていない。
私は仕事が速いので、見積もりは自分の見積もりに2〜5倍にして顧客に提出していた。これは社長や木藤専務の指示だ。そして、あまった工程にもう1つ彼らの特命の仕事が入れられる。
この見積もりで提出しても、イーストの長井部長チームよりは早い。徳田もそうだ。
木藤専務には「バランスを考えてくれよ」なんていわれる。
一番悪いところにバランスを合わせる事も無いと思うのだが…。
ここでも奇妙な平等主義だ。しかも末期症状に近い。何時の間にかイーストはソフト業界でも作業単価の高い会社となっていた。
まがまま社員
 会社は名目上、自主休暇なんか認めていない。
だから私は、有給休暇なんて3ヶ月ほどで使いきってしまう。その後は会社の規定により減給扱いだ。
しかし、金の問題でないと割り切っている私にはどうでも良いことだ。
たとえ給料が半分でも休んだほうが良いとさえ思ってきていた。そして一番ひどいときには出社も午後からになった。
おそらく、1991年頃の私は会社に定規の1/3も行っていないのではないだろうか?
 会社に行くときは午前いっぱい寝ていて、電車のすいている時間帯に出社、定時に仕事を終え、酔楽へ直行…。
二日酔いで帰宅し、また午前いっぱい寝ている。この繰り返し…。
自主的に長期休暇を取るときなどは、車で北海道から九州まであての無い旅をする。北海道には数度も行っている。
また大島に釣りに行った時には、台風でしばらく帰れなくなったときもあった。まるで風来坊のような生活だ。

 しかし、会社は私に温情を示している。
 3日以上の無断欠勤は会社の規定で解雇の対象だが、解雇なんてしてくれない。
欠勤明けに会社に行くと、社長も木藤専務も温かく迎えてくれ、「飲みに行こう」なんて誘ってくる。
これは本当に彼らが寂しかったらしく誘ってくるのだ。皆さんには理解できないだろうが、そうなのだ。
 しかも、有給休暇を無償で提供してくれた。それは、私の給与が下がるのを心配してくれた社長が、欠勤を有給扱いとして処理してくれたのである。
もちろん、半休や遅刻も時々免除だった。
もはやルールも何もあったものじゃない。私は次第にわがまま社員になっていったのである。
ただし、「ボーナス査定は悪いよ」といわれていた。しかし、元来ボーナスに差をださない体制なので、悪い評価でも授与額は他の社員と一緒だった。
会社にしてみれば社員に説明する名目が立つというものだったろう。

 この時期の私は他の社員にとっても別格だ。
技術者を長いことやっていたので、技術者の腕としてもこの時期に頂点を迎えていた。26歳か27歳の頃だ。恐れるものは何も無かった。
その気になれば「どんなシステムでも作れる」と本気に思っていた。
 若い社員なんかは、私をカリスマのように思っているし、私の仕様書やソースコードはお供え物扱いだ。それに自由な行動がかっこいいと勘違いしているふしもあった。
本人は決して、かっこいいなんて思っていない。そこには反抗して、すねている自分がいるだけだった。
本当は、社員とコンピュータの話で自分を高めたかっただけだ。その対象がいない環境に苛ついていただけだ。
唯一、吉田部長と徳田、それに湯川が議論できる相手だった。
ただ言えることは、この時期の私は見かたによっては天狗だったろうし、ひねくれものだった。


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