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浅間神社正史の五回シリーズ
最終回の投稿が終わっていませんでした、、。
上の坊日記(ブログ)から Thu.12.23.2010 浅間神社正史第五回 今回は第五回、始めてのシリーズ最終回です。
長々とお話しして来ましたが、ようやく最終回になりました。 本来はまとめという形がふさわしいのではないかと思いますが、最後にひとつ河口浅間神社の肩書きについて検証していこうと思います。
延喜式内名神大社 河口浅間神社
何がおかしいか、お分かりになりますか?
今回のシリーズを読んでいただければ大方のことお分かりいただけるとおもいます。 河口浅間神社は、有力な論社であることは間違いなさそうですが、あくまで甲斐一の宮の論社であって本宮ではないのですから、延喜式内名神大社の肩書きを使うことは、本来なら絶対に許されることではないのです。 しかし、明治期から大正期にかけて村をあげての社格昇格論争の結果、河口浅間神社では延喜式内名神大社の冠を、公で使わない限り私用は構わないという、許可をいただき、もちろん本社の了承もいただいております。 感の良い方は気づいたかもしれませんが、私用では構わないということがおかしいですね。 仮に私が本社の宮司であったら、絶対に許しません。しかもこともあろうに最有力な論社なのですから、尚のことですよね。 また、触っては行けないことなのか分かりませんが、この件について書かれている文献は見あたりませんでした。
河口浅間神社は明治五年に、社格制定の上申書の御由緒を脚色し、官社から外され、本社が国幣中社、河口は郷社になったという話を耳にしました。 それまでは古文献にも多くみられる通り、おそらく河口浅間神社が甲斐 一の宮だったのでしょう。 しかし本社にとっては願ってもない昇格、河口は制定不服として社格昇格論争を展開します。本社は論争を収拾するべく、余計な抵抗をせず延喜式内名神大社の冠を使うことを了承したのですが、この判断にはおおきな誤算がありました。 それは、延喜式内名神大社の冠の私用に関して、触らずそ〜っとしておくことしかできないことなのです。 もちろん全面的に社格論争をするつもりなら別ですが、寝ている子を起こすようなものなので、下手に騒げば論争が始まるし、かといって冠を降ろさせないと、延喜式内名神大社が河口浅間神社の肩書きとして定着してしまう可能性がありますので、すごいジレンマでしょう。
本社は甲斐一の宮として、その認知度も不動のものになりましたが、今後もこの件に関してノーッタッチなのでしょうかね? |
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