|
1996年の2月、木藤専務が私と湯川を居酒屋に呼び出した。そう、例の新会社設立話をするためだ。
いつものように「とりあえずビール」から始まって冷酒に移りかけるときだった。
「いつか新会社を作るって言った話を覚えているかい?」木藤専務が切りだした。
私も湯川も木藤専務の優柔不断な性格は知っていたので、突然飛び出した設立話に少し戸惑いを感じていた。
私達は、本当に設立するのですか?とか資金はどうなっているのですか?とか質問したと思う。
いつになく自身たっぷりな口調の木藤専務は、心配無いを繰り返し、イーストの内情を語り始めた。
実際問題として、どこまでが本当か?、どこまでが誇大妄想か?については判断できないが、当時のイーストの状況を振り返ると、それなりの信憑性はあった。
そもそも、木藤専務は人を騙すことの出来ない性格なので、当時の彼としては真剣な話だったのだろう。
本人が信じきっている話というものは矛盾点が無い限り、嘘と本当の境界線が難しいものだ。
ここで木藤専務の発言を振り返ってみよう…。
知っての通り、曽根社長は吉田専務を裏切り、同情も示さず退社に追いこんだ。このような仕打ちをする人間は小人物で会社を任せられない。
それに隠岐会長はイーストをたたむ準備を始めた。経緯(いきさつ)はこうだ。
まず、イーストという会社では信用が無いため、一切の取引ができない。そこで、隠岐会長の会社センチュリーが取引の代行をする。
また、隠岐会長は、経営指導料と称してイーストから資金をセンチュリーに付け替える。イーストの株式51%はセンチュリーが持っている事になっている。
こうやってイーストからセンチュリーに移し替えた金額は2年間で1億以上になる。鈴木建設の開発費やDrawingの売上等。
また、この間にイースト救済と称して、銀行や国庫からイーストが調達した資金は約1億円弱。この保証人として曽根社長8,000万円。
つまり、隠岐会長はイーストに1円も出さないで、1億円以上をセンチュリーに付け替えた。
何の事は無い。イーストが得るはずだった利益を全部センチュリーに吸い上げられただけだ。
そして、吸い上げた代償は曽根社長のイースト保証人という個人借金だ。
つまり、曽根社長はイーストが倒産した瞬間に個人補償を求められる仕組みになったのだ。だから曽根社長にしてみれば会社を意地でも潰したくない。
通常、株式会社は有限保証で、会社の借金が個人に及ぶ事は無い。しかし、中小の社長は、個人で借金をして会社につぎ込んでしまう。つまり、個人的に借金を負ってしまうのだ。会社という看板で融資が受けられないからしょうがない。
もちろん、隠岐会長は会社とは別に曽根社長自身にも借金をさせた。例の奈良沢社長の会社にだ。
そして、イーストへの融資には曽根社長個人の保証担保を条件に金を都合させた。
それ以外にも巧妙な手口で曽根社長に借金を負わせ、彼らをがんじがらめにしたのだ。
イーストにあるはずだった利益はもちろん、鈴木建設発注の仕事だ。この仕事のために鈴木建設は1億円を振り出した。
しかし1年後、再建しないイーストを不審に思って鈴木建設の特殊処理チームがイーストを極秘で調査した。
そのとき隠岐会長の存在が発覚し、鈴木建設はイーストとの取引を停止した。当然尽力してくれたイースト寄りの鈴木建設社員は左遷扱いとなった人も出た。
鈴木建設にも、Drawing派と反Drawing派が存在しており、その対立の構図が社内人事に及んだ。
つまり、反Drawing派が勝利したのだ。それは計算機部の話で、まだDrawing派は設計部に数多く存在している。
しかし、鈴木建設の方針は、反Drawingでイーストとは取引停止なので、私と湯川の鈴木建設との付き合いはこの時期から地下に潜った。
隠岐会長は、もうイーストが金を生まないと見切りを付け始めた。唯一利益が見こめるのは、Drawingと加藤課長の率いる帝都建託出向チームだけだ。
隠岐会長はもうイーストに魅力が無いと感じている。
そこで、近い時期に手形を振り出して不渡りにする予定だと木藤専務は言う…。
こうなると、曽根社長と木藤専務に借金が残り、体力の無かったイーストからは最大限搾り取れた格好となる。
まさに寄生虫の考えだ。
しかし、俺(木藤専務)と隠岐会長はうまく行っているから、借金の無い会社を設立して軌道に乗せることに同意してくれた。
資金は、木藤専務と木藤専務の友人や親族、Drawingで取引のあった会社の社長等が株主になる。
まだ若干資金の取り付けが足りないが実行までこぎつけた。
ようするに、曽根社長に全ての責任を負わせてイーストとともに消えてもらうという事だ。
また、信用の無くなったイーストと縁を切り、新会社で鈴木建設と取引をできるようにする話も鈴木建設の一部の人たちとしてある。
イーストに残った社員の中で優秀な人達は新会社に移行させる。
というような内容を話してきた…。以上は、あくまで木藤専務の話である。
私と湯川は、「隠岐会長は絡んでいないのでしょうね?」と聞き返した。
すると木藤専務は、「関わっていないよ、でも株主として参加するかもしれない」と答えた。つまり、隠岐会長の承諾があって新会社設立があるからだ。
そこで私達は木藤専務に、「隠岐会長が資金提供するのは断れそうもないけど、10%以下にしてください」と付け加えた。
そのために足りない分の資金は提供しますと一応の約束を交わした。
それからこの話は徳田にもしてあり、承諾を得ているとも木藤専務は付け加えた。
最初に新会社設立の話があってから数ヵ月後、木藤専務から「銀行に株式の手続きをしたから振り込んで欲しい」という連絡が入った。
その間に幾度と無く話し合いが持たれていたので、躊躇無く資金を振り込む事にした。私と湯川と併せて200万円だ。
それは隠岐会長が参加してきても十分対抗できる株数になる予定だった。徳田は金が無いを理由に10万円程度にすることになっていた。
つまり、1人100万円の出資だが、私は新車を買って事故を起こした程度と考える事で支払いの負担を精神的に緩和させた。
それほど深く考えてもいなかったのだ…。そして私こと和田は新会社の役員に就任する事にし、給与も50万円以上を要求した。
私や地方の私の部下と湯川、それに徳田はイースト在籍のまま新会社に参加することにした。
それは、イーストが潰れるまで給与をイーストから出させたほうが新会社にとっても徳だという理由が後に判明する。しかし、当初は、イーストが潰れるまでの暫定処置という理由になっていた。
私も湯川も吉田専務の例を見ているだけに、イーストに籍を残しておいたほうがリスクが少ないと判断した。
そして新会社にはイーストからの出向扱いという事で合意し、新会社設立に臨んだ。
それは株式会社が最低1,000万円になろうとしている1996年の3月のある日だった。
いよいよ資金を銀行に振り込んだその日、私は電話で徳田に「金振り込んだ?」と聞いた。
すると、「いいえ、振り込んでいませんよ」という返事が返ってきた。
「早くしないと…今日まででしょ?」と私が続けると、徳田は信じられない事を言ってきた。
「だって、隠岐会長が参加しているんですよ?私は絶対に嫌です…」と言い始め、なんだかたくさん出資したみたいだから止めましたと言葉を結んだ。
たくさん出資している?…私の脳裏に嫌な考えが浮かんできた。慎重派の徳田の意見だ。妙な信憑性がある…。
そして、私は何かに巻き込まれていくようなめまいを感じるのであった。
|