第四章


プログラマの資質

 良しにつけ、悪しきにつけ、隠岐会長の手にイーストが移ってから、私(和田)と湯川が思い描いていたように事が進み始めていた。
それは、私達の持っている意見が隠岐会長の考える意見と根底で一致していたからであろう。
昔のイースト(曽根社長、木藤専務、吉田専務)なら断行できない事項が、隠岐会長というカリスマによって、特に木藤専務を動かしていた。
木藤浩次 イースト専務木藤専務は普段から私達の口やかましい意見を聞かされていたので、私達の主張が隠岐会長と同じだと気づいたようだ。
そうなると、実は俺が全てを影で操っているという勘違いをする木藤専務は、私達にもカメレオンしてくる。
そして、私達の意見を参考にして隠岐会長に取り入ったり、隠岐会長が何を考えているか私達に連絡してくる。
完全に、私と湯川の間と隠岐会長の間をカメレオンして回っている。
もはやそこに曽根社長の存在は無い。
こうなると、ますます隠岐会長は私達を手放せないと考え始め、その他の社員は如何に使いまわすか?と考えていたようである。
しかし、この考えを批判してもしょうがない事だ。ある意味で経営者なら当然の考えかもしれない。
まず、こういう考えがあると受け入れる事だ。
そして相反する考えとして、過去のイーストの考えだ。

 私達の世代を通して日本の教育は平等主義だ。正確には、偏った平等主義でエリートを認めない方針だ。
全員が一番になれるよう配慮し、異質な考えを持った人間は排除される。
そして、全員の平均点を向上させる目的が日本の教育にはあった。

 もう一つ、日本の教育を考えると変だと思うことがある。
それは、暗記能力の高い人が頭の良い人だと思ってしまう部分だ。
どうやら試験制度に問題があるように感じる。どれだけ暗記したか?っていうことを、どれだけ努力したか?に置き換える人もいる。
おそらく、どれだけ勉強したのか?の努力を見たいのであろう。どうしても発想の豊かさや連想能力に主眼を置いてくれない。
科学や歴史や世界をリードしてきたのは、暗記の達人じゃなくて、発想や連想の達人だ。

 中には両方兼ね備えた、とんでもない人もいるだろう。いわゆるエリートだ。
しかし、最近日本で導入された飛び級制度を受け入れた学校の数や、飛び級した人の数は数えるほどだ。
日本という国は天才やエリートを認めない体質なんだと改めて思う。
それでも、ゆがんだ教育方針だったと反省し、個性を発揮する方向性に変化してきた事は時代のなせる技だろうか?
願わくは、旧式の教育制度を受けてきた人たちは、新しい世代の息吹を邪魔しない事だ。

 さて、世界は小さいがイーストでは、旧式教育制度を悪用した光景が繰り返されてきた。
何かにつけて差別化を図らないから、個々の緊張感が少ない。突出しようとする人の気をそぐ。
若い社員に至っては向上心を持たない…。とまぁ、この辺りは以前に書いてきたので憶測して欲しい。

大谷圭吾 イースト技術部部長 大谷部長とプログラマーについて良く議論する事がある。
まず、新人のタイプを分類してみると…
・知識も分析力も長けており、コンピューターに情熱を燃やしている(設計もコーディングも天才的)。
・知識はあるが分析力に乏しい(相談相手かコーダー)。
・知識は乏しいが分析力がある(参考になるものがあれば設計もできる)。
・知識も分析力も乏しい(コーダーかプログラマーに向いていない)。
のパターンになる。
そして、プログラマーとして使える人物は設計能力があることが第一条件だ。
設計能力のある人物には分析能力がある。分析能力は創造性の原動力にもなる。
プログラマーは何でも屋だ。参考になるものを見ながらでも、ものを作り上げる能力が必要だ。
数学の試験会場に参考書を持って行って良い成績が取れれば良いのだ。つまり、参考書を見ても良いから新しい方程式を創造できれば良いのだ。
知識だけがあっても何の役にも立たない…まぁ無いよりはあったほうが良いのは当然だが…。

 20人の新人がいれば、天才的な人物は1人だろう。
設計のセンスを持った人物は5人だろう。
コーディング(プログラムの打ち込み)に使える人物は10人だろう。
どうしても業界に向かない人物は4人だろう。
という事になる。
徳田斉昭 イースト開発部課長 大切なのは、1人の天才の芽をつぶさないように育て、優遇するべき。仕事もゲリラか傭兵部隊のような役割だ。
それには余計な口出しはせず、自由に能力を自身で引き出させてもらう(わがまま天狗にするという意味ではない)。
残りの人たちは、如何に底辺を上げるか?が重要だと思う(それでも2人程度は業界に向いていない人が出る)。
つまり、2つの系統があると言う事だ。
研究開発に向いているグループ(天才的な人や、能力の高い設計者とプログラマ)。
受注開発に向いているグループ(各人の底辺を向上させて平均的に底上げする)。
 普段会社を維持していく部隊は受注グループだ。車でいえばエンジンのような存在だろう。
おそらく大部分がこのグループに属すると思うが(8割)、このグループには画一的な要求も仕方が無い。
会社において重要な事はマニュアル化されても良いから、社員の質を平均的に上げる事だ。
 受注グループは研究グループに資金をつぎ込む事になる。そしてエリートを中心に周りもサポートできる体制にしなくてはいけない。もちろん、営業の接待費に金を使うかもしれない。
研究グループは束縛してはいけないし、足を引っ張る人を就けてもいけない。
独創的なシステムは1人の天才がいれば可能なのである。それがコンピューターの世界だ。
サポートする人たちは独創的なアイディアに対処できるよう、じゅうぶん自分自身に磨きをかける必要がある。
もしかしたら明日のヒーローは自分かもしれないからだ。

 このような前提条件があって大谷部長は、イーストの大部分を占めるであろう普通の社員の能力の引き上げが急務だという。
天才教育と日本型教育の2つの方針が会社には必要だというわけだ。
大多数は凡人だ、凡人には日本型教育で底辺を上げる。会社の8割が機能しなければ天才も養えないともいう。
 今のイーストの社員の能力は、おそらく平均以下だ。
研究開発の分野は、私や徳田課長が今まで通り行ってきた方向で良いという。まぁ、私達程度で良いっていうんだから、イーストもレベルが高くないと思うのだけど…。
そして大谷部長は、残りの社員は自分が責任を持って底辺を上げたいと宣言した(後に吉田専務が退社するときにだ)。

 問題は平均以下だと気がついていない多くのイースト社員だった。
大谷部長が社員にマニュアル化を強要すると反発されるのだ。楽な体質を覚えてしまうと厳しさに対して反発するようである。
そして至った結論は、新人のときから教育するしかないという事だ。現状の社員は救える人だけ救う程度のことしかできない。
大谷部長は後日(といっても1年後)、阿佐ヶ谷に新人のうちから教育できる事務所を会社に要望し、開設した。
だが、時はイースト崩壊前夜…大谷部長の事務所は運用される事無く閉じたのだが…。

和田信也 イースト部長 イーストは新製品開発のヒントとなるように、幾つかの大学(助)教授を顧問として迎えていた。もちろん顧問料は支払う。
しかし、私の経験から日本の大学で行っているコンピュータ関連の研究にロクなものはない。
中には「おおっ」となるような研究室もあったが、大抵は訪問して失望する事が多かった。
例えば関西にある某有名国立大学の研究室を訪問したときの事だ。
メインの目的はバーチャルリアリティーの研究室で、日本でも五本の指に入るほど有名らしい…。そして訪問した結果は…日本のコンピュータの研究室って程度が低いって事だった。以下に訪問した大学の研究室で見た研究内容を記述してみる…。

1.バーチャルリアリティー
時代遅れのガラクタのようなグローブと3次元マウスを見せられ、学生は仮想の相手とピンポンをして遊んでいる。
また、仮想空間で旋盤をしたり、物体を整形したりしていたが、我々プロの目から見れば幼稚なシステムと発想力だった。
アイディア(3次元メッシュ法・ひょうたんソリッド)も既に業界ではずいぶん前から常識化していて、数段上のシステムが某企業では実用化されていた。

2.2次元の図面(3面図)から3次元データを自動生成
これはアメリカに留学している鈴木建設の社員が最新の情報を私に連絡してくれ、自身も研究中だったので興味があった。
しかし、日本の大学の研究室では基本図形しかできていなかった。
問題は弧に想定する部分の3次元化が問題なんだが、円弧さえクリアしていなかった。
私が「弧の部分はどうしています?」と質問すると、「それが問題なんです」と学生が答えてきた。
グローブを見せる学生その程度ならイーストの若い社員にもできるぞってレベルだ。
さかのぼる事数年前、イーストにリュックを背負った外人が、デモをしたいと訪問してきた。リュックの中にはラップトップが…。
まさにそれは、2次元の図面から3次元データを自動生成するシステムで、聞けば自分で開発してベンチャーで会社を興したとのこと。
このシステムは、楕円同士の弧の生成がうまく機能しないが、それ以外の部分は問題無く動作していた。
そんなデモを過去に見ている私にとって得るものは何も無かった。

3.すい臓のスライスを3次元化する
これも大した事は無い…。つい数ヵ月前にアメリカで、人体全部のスライスデータを作成したばかりのころだったのだ。
その場で、ニュースを見ていないの?と思わず言いそうになってしまった。
現在では、人体データとバーチャルシステムが一緒になって、仮想の手術ができるところまできている。

 その他、いくつか大学の研究室を見学したが、日本の一流大学と呼ばれているコンピュータ先端技術の展望は暗い。
想像力豊かな人の侵入を拒んだ結果なのだろうか?若い人材がゲーム業界に憧れる理由がなんとなくわかる。
それとも私が見学した研究室が、たまたまレベルが低かったのだろうか?
とにかく、私はイーストに報告書を提出し、無駄な顧問料を即刻打ち切るように提案した事があった。

 日本の教育って文法とかを重視する教育者をありがたがるんだよなぁ…。コンピュータのプログラムって文法や論理じゃ駄目なんだ。C言語もC++もJavaも関係無い…根底に共通している、ビジュアルなものでプログラムするのだ。プログラム言語仕様を一生懸命教えている教室もあるが、飛びぬける人材にとって、あまりにも無意味な時間なのだ。まぁ将来コンピュータ言語の先生になるんなら話は別だが…。
ちょっと意見も言わせてよ…
 私が思うに1960年〜1965年生まれのパソコン先駆者世代の罪もあると思う。もちろん私も含まれる。この世代はリアルタイムにパソコンの進化と触れあえた幸せな人達だ。もちろん知識の蓄えも自然にできた。
従って、上下の世代を見下せる環境にあり、天狗になりやすい。
目的を達成するためにコンピュータを活用するという事実を忘れがちだ。彼らは純粋にコンピュータのアーキテクチャの中に入り込んでしまったのだ。そして、幸運にもコンピュータに開眼した人達の共通項に自信過剰ってのがあり、もう1人の天狗を認めない。もちろん私も大天狗だ。
 そんな人達は会社でも、新人のコンピュータ講師を依頼される。おそらく講師に任命されるのだから、社内でも発言力が大きく、技術もあると思われている。
たいてい任命された講師は、どこで聞きかじったのかわからない知識披露に走ってしまうケースが多い。C++は本当のオブジェクト指向じゃないとか、あの言語教本は使えないとか、Windowsはunixより劣るとか…まぁ色々だ。
これじゃ、おまえ達も俺のように天狗になって勘違いしろよといっているようなものである。そんな知識は素質のある人やコンピュータに熱中する人なら1年もすれば理解してくる。
 重要な事は、与えられたシステムを完成させるノウハウであり、人間にとって理解しやすい分析方法をコンピュータのアーキテクチャでどう再現させるか?なのだ。そういう事ができる人はソースレベルでも自然に表現できるようになる。つまり、そういう人物を如何に育てるか?が重要だ。
もちろん、分析に向かない人もいる。こちらは従順に育てる必要がある。そうしないとテクニックに走り、第2の天狗になるのだ。私はDrawingチームを遠まわしに天狗にした可能性もある。
 天狗に与えられる仕事はプロトタイプのようなシステムが多い。会社にとって便利だし、対外折衝も技術論を展開して扱いにくいからだ。
こうなると自然に、システムを完成させた経験が無くなるし、天狗もそんなことに興味が無い。ここで安住すると批判が得意な技術屋になる恐れがある。
パソコン先駆者世代の本当の役目は、コンピュータの現状を批判する事ではない。コンピュータの可能性を啓蒙する事だと思う。
 プログラムに関していえば、ソフト・ハードのアーキテクチャ偏重より、万物を自然に分析し分解する方向からコンピュータのアーキテクチャを顧る事だ。これには、幅広い知識と想像力が必要だ。つまり、人間的にも魅力が必要だと思う。
ある意味で、色々な過去の蓄積を否定する事もあるかもしれない。誰だって蓄積の否定は辛い。
しかし、私も含めパソコン先駆者世代は、私達より上の世代が、新しい流れに理解を示さないというイライラを経験した。ならば、私達は同じ過ちを繰り返さない事じゃないだろうか?
しかし、こうやって批判を書いている私ってなんだろう?私は過去の清算をしているってことで許していただきたい。…かな?
そうそう、天狗さまの夢は?と聞かれると、世界征服!というので見分けが簡単である。

ビジュアルとシリアル これからのプログラマにとって、シリアルな人間(例えば電話番号を数字の羅列として記憶する人)は役に立たない。
ビジュアルな人間(例えば電話番号を写真のように記憶する人)が必要なのだ。
これはシリアルで記憶する人間(大多数の人がそうだ)に説明しても理解してくれない。
またビジュアルな人間は、特定の事以外の記憶力が極めて低いのも特徴だ。自分に必要の無いと判断した情報は病的なほど記憶が出来ないのだ。
まぁ例としては良くないが、歴史の年号を記憶するより、流れと必然性を理解している人のほうが歴史に新しい解釈を与える事が出来る。

 ビジュアルな人間にとっては、システムがプログラム言語を超えてイメージとして出てくる。それは言葉じゃなく、コンピュータの動きが画像になったような感じなのだ。
これが生まれついてのセンスだと思う。もちろん、コンピュータの学習が無ければ開花しないだろうが…。
 将棋や碁の打ち手が手順を再現するのを見た事があるだろうか?あれと同じである。
センスのあるプログラマーも数万行にも及ぶソースが頭の中にダーッと出てくる。まるでエディタのように。
そして、これから打ち込むであろう、ソースも写真のように出てくる。得意な分野の記憶力は凄いのだ。
いや、記憶力ではない。連想とビジュアルが複雑に結びついた記憶力なのだと思う。
頭の中に仮想エディタもあり、仮想コンピュータもあり、仮想仕様もあるビジュアルな世界なのだ。

盲目的な知識の運用をしても… コンピュータの達人は、コンピュータ言語を習得している人や仕組みを理解している人だと勘違いしていないだろうか?
インターネット上のネットニュース(特にfj)を見ていると暗澹たる気分になる。天狗の総本山だ。
全体を認識せず、細部に目が行くような議論の連続だ。言語屋が多い議論の特徴だ。
しかも、大多数(文献)がこういっているから、あなたは違うよ、と短絡する傾向もある。
コンピュータは、既に誰かが発明したり、開発した事象の上に成り立っている、答えの用意された特殊な分野だ。
それなのに、それを武器に新しい意見を潰しまわるのだ。パソコン先駆者世代の悪い癖だ。本当に必要な事は新しい意見に何かを感じ取る事なのに…。知識披露から1歩抜け出る事だ。
報告型の発表を聞いても面白くない。討論型の発表の方が面白いのだ。どうも日本型の教育を受けた人は報告型になってしまう。結果だけを追いかけては新しいことを発見できない。いつまで海外から来る新しい発想の模倣を続ける気なのだろうか?
 記憶力や文献だけでコンピュータ(だけとは限らないが)に強くなったと勘違いしてはいけない。
また、数学的な論理力で、システムが作れたとか、設計できたとも勘違いしてもいけない(正しく用いれば、これは大切な素養でもある)。
実はそんなことは問題ではない。芸術的に近い創造力が大切なのだ。知識や論理は実現先がコンピュータなので、単なる手助けにしか過ぎないのだ。
芸術的な発想を大切にし、論理で検証するという順番が好ましい。検証には数学的な素養が必要なのだ。私が言いたいのは数学的な考えを最初から前面に出すなということだ。

 コンピュータは幼稚な道具である。
都合の良い事ばかり考えても…幼稚なだけに特別な技術をたまたま傍受した人が重宝がられていた。私もそうだし、イーストの大部分の人間がそうだ。

 一方で1990年代前半に、にわかプログラマーがブームのように増大した。彼らの大部分は淘汰されるだろう…。
何故なら、もう彼らの特殊技術は必要無い時代が来つつあるからだ。少なくとも、分析・設計のできないプログラマは必要の無い存在になる。
大谷部長の行おうとしていた、底辺の底上げは延命処置にしか過ぎないのだ。
それは大谷部長も心得ている。だが、一方で1人の人間がシステムを開発できる時代も終わろうとしている。
盲目的な知識の運用だけではいけない。自らが考え、知識は参考だ。

 本当に独創的なコンピュータ上のシステムは、日本型教育をドロップアウトした人の中から登場するか、ある分野に特化した人の中から登場する可能性がある。
いや、既にそうだ。
なぜなら、コンピュータの本当の目的は人間の創造性を手助けするためにあるからだ。


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