第一章


自社製品販売

 鈴木建設と共同開発してきた新CADを正式にリリースする事になった。
そこで、リリースに向けての体制は以下のように決定した。

商品名 新図面入力システム「AI-Drawing」。略して「Drawing」。
版権 鈴木建設。イーストはロイヤルティーを20%鈴木建設に支払う。
販売権 イースト。
著作権申請 高木洋一以下、鈴木建設社員。
システム開発・メンテナンス 和田信也。
マニュアル制作 湯川祐次。
営業 木藤浩次。
広報 イースト営業部・鈴木建設広報部。
価格 100万円。
責任者 イースト:木藤浩次。鈴木建設:高木洋一。

著作権は開発資金を鈴木建設で負担したので鈴木建設へ(おかしな話だが)。
この時、イーストでは営業部を新設。
開発と営業は実質的に和田信也と湯川祐次が取り仕切る。
そして、私達2人の統括は木藤部長に委ねる。

 プロトタイプ完成から半年後、データベース修正、外見の調整、出力装置の充実、コピープロテクト等の変更を加え、製品が完成。
遅れること2ヶ月、マニュアル、パッケージの完成を経て遂に正式リリース。
1988年11月、「新方式のCAD開発に成功」と題して新聞発表。
各種雑誌のインタビューや寄稿に明け暮れる。

新聞発表 取材・紹介雑誌

広報、カタログの為にイメージモデルの選考会を行う。
鈴木建設の社員もこの日ばかりは、ただのおじさんだと知った。ちなみに選ばれたモデルは如何にも鈴木建設らしい、まじめな雰囲気の女性で、確か当時コーヒー飲料のCMに出ていた人だ。
晴海会場にてデータショーに参考出品。
その後、矢継ぎ早に各種出品展にて製品発表。
この年と翌年は目まぐるしく日々が過ぎていったのである。

 一方、私はリリースを終えると、しばらく中短期の仕事をメインで行っていた。それは多岐に渡っており、原子力研究所から町の小さな玩具設計所まで…。その他、DXFコンバート依頼とか、図面データの電話回線転送とか、画像解析とか、色々だ。
要するにプログラマーの仕事って何でも屋だ。そのため顧客の業務に順応する能力も必要なのだ。多趣味で凝り性の人間に向いている職業かもしれない。ただしコツは、システムに深入りしないで切り上げる勇気が大切だと私は思う。
 興味のある人のために仕事の内容を少しだけ記述する。
原子力研究所:放射線照射による温度測定と管理システム。
電気抵抗による温度測定装置の情報をA-D変換し、0.1μ秒単位でDMA転送後、記録し温度に変換。その後はデータの管理。
玩具設計所:従来のCADでは表現が難しい、自由曲線を設計者の意図通りにデータ化する。

 翌年1989年になると、営業実績の効果からか、製品問い合わせと、販売代理店の依頼が多く来るようになってきた。また、大手ゼネコン鈴木建設の後ろ盾もあり、話題性には事欠かなかった。
鈴木建設も自社の設計部にDrawingを導入したため、出入り業者も製品を購入するという循環も手伝って売上は順調に推移していったのだ。
 イーストの営業部は各種ショーへの出展やデモ活動、代理店対策のため営業マンを増員。
その後、実に多くの営業マンがイーストに入社しては退社していった。中には年齢も高い人が来たが、営業部は若干22歳そこそこの湯川が取り仕切っていた。
とはいえ、最後の決定権は木藤部長に委ねられていた。しかし多くの場合、彼の優柔不断で自己責任の無い性格のために苦労していたのは常に私と湯川だった気がする。

 また他の出向も景気の向上と共に順調な兆しも見せていた。
更に私の仕事から社内でのパソコン主体の受注開発も行われるようになってきて、出向者も徐々に呼び戻されるようになってくる。
私がDrawingの開発を始めた当初は社内にパソコンが1台。NEC製のPC9801だ。もちろん使用されておらず、埃が積もっていた。
しかし2年後、社内のパソコン台数は10台となっていた。そして会社最盛期には社員の数より多い、60台以上のパソコンがイーストに存在していた。

 話はそれるが、その頃他チームで鈴木建設発注のクレーン構造解析システムがパソコン上で行われていた。
しかし、プログラムは組めても設計ができない人材ばかりで、仕様書のはっきりしない開発になっていった。
本木博史 イースト技術部部長待遇開発責任者は本木博史と言う元高校の物理教師で、37歳ぐらいの男だ。
この人物は使えないと全社員が思っていたのだが、年齢のため部長待遇だった。当然、設計なんて出来ない。
つまり、一番の元から仕様書が存在しないのだ。
当然そのプロジェクトは火を吹いた。
 最後には出向者も深夜に帰社して手伝った。末期的な人材投入で乗り切ろうとしたのである。
私は設計のしっかりしていないシステムには手を出さない、という方針を社長に伝えてあったので、最後までそのプロジェクトに関わらなかった。が、湯川まで投入されると飲む相手もいなくなるので、他の社員の為にプログラム講師として参加した。
結局は関わってしまった…。
 その後そのシステムは、継ぎ接ぎでなんとか納めたが、バグ(バグ:システム開発の不備でコンピュータが異常動作したり、止まってしまうような現象の総称)がどんどん出てくる。
そのバグ修正の為にそのシステムは、本木のライフワークとして5年も継続された。もちろんバグ修正なので収入は無い。
信じられない!部長待遇の高給を未収入のこの男に会社は数年も支払っていたのだ。
ちなみに会社崩壊後、彼は尻尾を振って会社乗っ取りを実行した男の元に身を寄せた。

 話を本筋に戻すと、Drawingを契機に会社は余剰人員を社内に抱える体質に変化していったといえる。
この場合、社内の引き締めと体制の確立、更に新規研究開発を前向きに行わなければ先細りになるのだ。
それを出向主体の体制のまま、社員にも意識改革を求めなかったのは経営者の怠慢といわざるを得ない。
酒の席や普段の会議を通して、私と湯川はそのことを強く主張したが実行はしてくれなかった。
周りの社員も自分の待遇が悪くなるのを恐れ協力してくれない。
会社が上向きになっていく過程で、既に崩壊の足音は聞こえていたのだった。


一つ前へ ホームへ戻る|一章登場人物|読み物目次 一つ後ろへ