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河口湖地域で昔、戦地に行った時の体験記
ただ読んでください…

「終戦五十年に思う」
 (神俳の加護により私は生きて故国の土を踏む事が出来た)

小佐野 恒朗

 昭和二十年三月、私達の部隊歩兵第六十七連隊はビルマ中部マンダレーの北方マダヤ平地で敵の戦車との激闘の後、南へ下って来た。マンダレーのすぐ北だ。目の前にマンダレーヒルの山容が迫る。連隊本部は寺の後のバナナ畑に息をひそめる様にして待機していた。第二大隊はマンダレーヒルを奪取せよとの師団命令で既に進発していた。
 暫らくして連隊長が「第二大隊の作戦指導に行く小佐野ついて来い」と言われ同行して行った。途中まで行って「あ、軍刀を置いて来た。取って来てくれないか」と言われた。連隊長は無腰だった。一人連隊本部に戻り副官に話して軍刀を受取り連隊長の後を追った。処が連隊長と別れた場所に行く前にもう其の間に敵が入り込んで来ていた。
 急ぎ本部に戻り副官に報告したが其の間、敵は本部の位置を察知したか包囲の態勢をとり、バナナ畑の後の田圃に展開して来ている。寺の前の道路をキャタピラの轟音を立てながら敵の戦車が走って来た。
 日は漸く西に傾き後一b五十センチ位で日没になる、そうすると敵は攻撃を中止する。もう少しの間だなと思う。
副官が「若しバラバラになったら向こうの山の裾に五十一連隊がいるから其方に合流せよ」と田圃の向こうの山脈を指差して指示した。敵はもう目の前の生垣の側に接近していた。命令受領に釆ていた井上軍曹が生垣の近くで狙撃されて倒れているのが見えた。不意に黒い物が飛んで来るのが見える。手櫓弾だ。
 本能的に側の溝に身を伏せた。私の前に栗原少尉が伏せていたが突然バッと身を躍らせて溝の左側の縁に伏せた。手稽弾は右の縁で炸裂し栗原少尉は右の口当りから血が吹き出していた。たぶん手樽弾が溝に落ちると判断して退避したのだろう。感の鈍い私は其の値伏せて助かり、機敏な栗原少尉は負傷して仕舞った。栗原少尉は元々私と同じ歩兵砲隊の出身で、連隊本部附となり、部隊が中支に居た時少尉候補者の試験を受けた。内地の士官学校を卒業して少尉に任官し原隊に復帰してまだ三カ月しかたっていなかった。
 副官が「向こうの寺に下がれ」と命令した。敵が後に迫ってくる中前方の寺に向かって走った。腰の因襲が重い。寺と寺の間にかなりの空地があって通信隊の下士官が飛び出し、続いて私が走った。其の後を栗原少尉が来ると思ったが、其処で見たのが最後で栗原少尉はこの後部隊に来る事はなかった。
 日は山の端に入らんとしていた。もう少しだ。寺から更に田圃を突っ切って田圃の中の部落に入った。其処でバラバラになった兵力をまとめたが数十人の本部要員ではどうにもならない。本部は更に五十一連隊の展開している山裾に向かって移動した。部落を出ると広い田圃が続いている。それを突っ切って行かねばならない。敵は散開して追撃してきた。耳元をさかんに銃弾がかすめる。
何か自分ばかり狙われているような気がした。ふと預かっている連隊長の刀緒は中佐だから赤い。俺を佐官の部隊長とでも思って狙っているのかと思い刀緒をまとめ刀を前に出す億にして走った。
 日は山の端に沈み夕闇が迫って来た。前方に幅四。五bの川があった。飛び込むと膜位の深さだったが一気に押し渡り田圃を越えて部落に入った。敵は川の線迄来たが夕闇が濃くなると共に攻撃を中止して引き上げて行った。
 晴号班の北村軍曹が側にきて、田圃を駆け抜ける時情報主任の伊藤中尉が腹部貫通銃創を受け「俺は助からないから自決する此の鞄に情報書頬がある副官に渡してくれ」と鞄を預かって来たと告げた。兵器担当の熊谷中尉も姿が見えない。
 部落の中の寺に集結した。其処に瀧口達隊長の姿があった。近づいて持って来た連隊長の軍刀を渡すと、連隊長は「小佐野曹長有難うよ」と押し頂く様にして軍刀を受取った。其の時の真に嬉しそうな連隊長の声音が今も耳に残って忘れられない。
 先に護衛小隊と共に退避した軍旗も、そしてマンダレーヒルを北方からの攻撃命令を受けていた第二大隊も攻撃中止になり、合流してマンダレ一に向かって転進した。
 部隊はマソダレーヒルの東南方から再度攻撃したが頂上を先に占拠して地の理を占めている敵を何としても追い落とす事が出来ない。敵の戦車がヒルの周りをぐるぐる廻りながら戦車砲で砲撃してくる。遂に師団はヒルの占領を断念し部隊は転進命令に依ってマソダレーの王城に入った。王城は廻りに堀を巡らし城壁もある。中に野戦倉庫の一隊が居た。一時部隊の指揮下に入り木下伍長が命令受領に来ていた。敵の攻撃は日に日に激烈を極めて三月二十日夜半遂に王城を撤して南下、師団主力と共にミンゲの渡河点に向かった。
 此の河はイラワジ河の支流だが此の辺りで河幅二百b以上もある大河で戦前は立派な橋がかけてあったが爆撃で落とされていた。此所に師団主力は予め渡河のため舟艇を集結し監視隊を置いたがこれが敵の奇襲を受けて船舶を奪取され、監視隊は命からがらのがれて師団に報告した。私は渡河点に配備された高射砲隊の陣地で朝を迎えた。やがて日が昇り始めると共に敵の砲撃が始まった。
日本軍の渡河点への集結を知った敵は圧倒的優勢な火力を集中して部隊を攻撃して来たのだ。此の場所では危ないと云う事で本部を移動退避せよとの命令が出た。
 私が壕を出て二、三歩進んだ時、目の前で迫撃砲弾が炸裂し爆風と共に土砂が顔に吹き付けて来た。そして野球のバットで左の向こう脛を殴られたような感じがした。
目をやられたかと手で顔面の土砂を沸い目を開いたら周囲が見えるので目は大丈夫だなと思いながら足を見ると、血が吹き出している。すぐ今迄居た壕に戻ると松原軍医が居た。早速ボロボロになった靴を脱がせて包帯をしてくれた。膝、脛、大腿部、右踵と顎の下等後になって数えて見ると十六カ所の破片創だった。もう一b近かったら体ごと飛ばされていただろう。松原軍医が側に居てくれた事も運が良かった。
 猛烈な砲声は終日段々と轟き渡りもはや壕から一歩も出られる状態ではない。夕方近くになって松原軍医が後方に下る高射砲隊の車に頼んで野戦病院に送ってもらう事になった。時々マラリアの熱が出る坂口上等兵を付けてくれた。串は乗用車だった。敵の砲撃が止んでいよいよ移動が始まったが少し行った処で運転手が「これから先は道の無い所を進むため乗用車では行けなくなるかもしれない。トラックの方が車体が高いから良いと思う」と言って同じ高射砲隊のトラックに話をしてくれトラックに移乗した。トラックは一晩中少し行っては止まり、少し行っては止まり先の話の通り田圃の畦を突っ切り、薮を押し分け、右に左に激しくゆさぶりながら走っている。その時はもちろん何処に向かっているのか全く分からなかったが、後になって準備した渡河点を敵に先取りされたため新たに渡河点を探してミソゲの河の右岸を上流に進んでいたのだった。
 夜が明けた。前方で兵隊が「止まれ、すぐ木の下に退避しろ、敵の飛行機が来る」と云うので近くの部落の木の下に車を入れた。車を入れると運転手達は自分の装具を持って自動車を置いた値何所かへ退避した。坂口上等兵も私の背負袋や装具を持って退避した。私は自動車がやられたらもうお仕舞だ、自動車と運命を共にするならそれも仕方ないと思い、その儀トラックに残り横になっていた。砲声は今日も続いていたが幸い自動車の処には一発の弾丸も飛んで来なかった。
 夕方近くになって同乗していた患者を所属部隊の者が担架を持って引取に来て連れていった。運転手と高射砲隊の人達が帰って来たがいきなりハソマーで自動車のエンジンを壊し始めた。訳を聞くとこれから先は敵中を突破して行くので自動車で行けないから此所で敵に利用されない様壊すのだと云う。そして自分達の荷物をまとめ、背負袋を背負って行って仕舞った。坂口上等兵は到頭帰って来ない。
一人残された私はどうする事も出来ない。自分の部隊が何処に居るのかも全く分からないのだ。此の足で敵中突破等出来る訳がないと迷っている中日は既に暮れ果て南方の明るい月が昇って来た。すると部落の前の田圃に続々と兵隊が集まってきた。そのうち「命令受領者集合」と云う声が聞こえた。はて何処の部隊だろうと思い声の方に行き聞いて見ると私達の十五師団指令部なのだ。私は早速師団野戦病院の命令受領者を探し自分の状況を話し収容を頼んだ。処が野戦病院では師団指令部が今日の戦闘で多数の損害を受け、其の収容で手いっぱいで、此処迄携行して来た患者も全部各隊に引き取って貰った処だ。司令部以外は参謀の許可が無ければ収容できないという事だった。これではとても取りつくしまもない。其処で自分の部隊六十七連隊の事を聞くと、其の部隊は今日昼間の中に渡河して河の向こうに居ると云う。
 そうこうするうちに命令下達で行軍序列を示された先発部隊は早くも軍靴を鳴らしながら闇に消えて行く。後を次々と各隊が続く。廻りの兵隊の姿がだんだん少なくなって来た。
  私はインパールから撤退する途中で、後から迎えに来るからと言って残された者、道端で腰を下ろして一休みと言った姿の儀事切れている者、小さな各自の携帯天幕を張った下で横になっている体からはもう死臭がしていた。こうした姿を数え切れない程見て来た。今更じたばたしても仕方ない。私は田圃の畦に腰を下ろして次々と出て行く兵を見つめていた。そうだ最後の暑が行ったら此処で自決しよう。手元には最後に残した手樽弾が一発ある。どうせ生きて帰れる筈がない。故国日本は雲煙高里の果てなのだ。目をつぶると故郷の河口湖の岸が、対岸の大石村が、桑崎が瞼に浮かぶ。湖面は鏡の様に平で波一つ無い。丁度今の自分の気持ちの様だな、迷わず死ねると思った。
 其の時、前方で「おーい中西」「おーい西原」と呼び合う声がする。其のどちらの名も声も聞き慣れている歩兵砲隊の内務班当時の兵隊で、中西は衛生兵、西原は下士官候補者隊出身で軍曹だった。私も大きな声で二人を呼んだ。二人が月明かりの中に寄って来た。西原軍曹はマンダレーの戦闘で大腿部貫通銃創を受けて野戦病院で此処迄来たが突然病院から出されたと云う。私は司令部の負傷兵を収容する為各隊に野戦病院の患者を引取る様命令が出た事、然し私達の部隊は既に河の向こう側に行っている為引取に来られない事を告げた。其処へ連隊本部付の沢井軍曹が足を引摺りながら来た。彼も又病院から出されたのだ。文一人来た。胸の標識を見ると同じ部隊だ。五中隊の山田一等兵だと云う。退避していて部隊とはぐれて仕舞ったそうだ。「お前牛を使った事があるか」と聞くと大隊行李で使った事があると云う。よしそれでは牛車で行ける処迄行こう。死ぬのは何時でも死ねると心を決めた。
 此処迄牛車に乗せて来た患者は担架で、荷物は背負うた為何十台と云う牛車が牛を付けた儀捨ててあった。其の一台に乗って牛の尻を叩きながら先に行った部隊の靴の跡を頼りに進んだ。田圃を突っ切り、草原を過ぎ、小川を越えた頃は夜が明けて来た。やっと少し遣らしい道に出た。ビルマ人の家の横を通り過ぎた時炊飯の煙が上がっていた。山田一等兵が一米角位の毛布の切端を持って行き炊きたての飯と交換してきた。考えて見ると昨日の朝以来何も食べていない。今迄空腹も何も感じていなかったが急に食欲が出て来てむさぼるように皆で食べた。
腹が出来てさてと少し進んだら薮の陰から将校が出て来て「木の下に退避しろ、飛行機が来るぞ」と怒鳴った。
聞いて見ると第二輸送司令部だと云う。これから何処に行くのですかと聞くと、今分からないが情報が入ったら教えるから待てと言われた。負け戦とはこんなものかと思う。夕方近く先の将校が教えてくれた。「この道をずっと進むと川がある。各部隊は朝までに其の処に集結する事になっていたが遅れた部隊は向こうに見える山の脚に集結する事になっている」と遠くかすんでいる山を指差した。途中の道路の状況を聞いたが此方にも其処迄は分からないと云う事だった。
 日没間近出発した。月明かりを頼りに進む。南方の月は明るい。新聞が読める程だ。行く程に川が見えた。橋は無くて斜めに川底に下り流れを渡って又斜めに上って行く。突然横から、「誰か」と推可された。友軍の歩哨が立っていた。歩哨が何処に行くのかと聞くので先に輸送司令部の将校に教えられた通り話した。すると歩哨はすぐ後の家に入ったと思うと隊長らしい将校が出て来た。
そして聞くので先の通り話すと家の中に声をかけ、三、四十人の一隊が出て来てとっとと先に行って仕舞った。
川を越えた処で山田一等兵が「牛も疲れているしこれから先何処に水があるか分からないから休んで飯金炊さんをしておきましょう」 と言って来た。言われて見ればその通りで牛には何も食べさせていない。炊さんと休む事にした。
 木の下で横になろうとして月明かりでふと見ると靴らしき物が見える。側に行って見ると確かに靴だ。私の靴は迫撃砲弾に依って穴だらけになり捨て今は素足に包帯を巻いただけだ。素足になって初めて南方の草と云う草には全部と言ってよい位嫌がある事に気が付いた。靴が欲しい。それが今の私には最大の念願だった。抱く様にしてうとうとしたが目を覚ました時は明るくなっていた。
改めて靴を見ると十一文半の新品だった。近くに木の空き箱があった。何処かの部隊が此処で靴を分けたがあまり大きな靴で足が合う者が居なくて捨てたらしい。私は当時十文七分をはいていた。負傷して足も腫れてそれに包帯をしているのでかなり太くなっている。包帯を少し解いて結目を直してはいて見ると入った。十一文半のお陰だ。然し靴紐は消耗品だから持って行って無い。気が付いて腰を見ると靴ひも一足分二本で公用行李の鍵がぶら下っているではないか。部隊が中支南京を出発する時作戦書記を命じられていた私は各種命令等の作戦書類を入れる為公用行李を一つ渡されていた。其の鍵を腰に下げるのに靴紐で、しかも二本でとは。神がこの事あるを予知して靴紐二本を使用させたのだろうか。私は神に感謝した。公用行李は爆撃で吹き飛ばされて今はない。私は靴紐を腰から外し鍵を捨てると靴に通した。さあこれで何処でも歩ける。其の嬉しさは言葉で表しきれない。
急に元気が出てきた。眠っている仲間を起こして木の枝を伐って牛車を偽装させた。マンダレーで周辺の作戦地図を見た時ミソゲの川に向う道路がもう一本あった。今迄にまだ越していないのを考えるともう近いのではないだろうか。其の道路を敵に押さえられると集結地に行く事が出来ない。其の道路を越す迄は急がねばならない。皆が準備をしている間に私は靴を踏みしめて道路の偵察に行った。三百b程行った時前方に此の小道と交叉する一筋の道路が見えて来た。薮を利用し充分警戒しつつ道路に近づいた。道路は幅六b以上もある立派な舗装道路だ。人影はない。然し見ると交叉する処に壕が掘られている。靴跡を見ると鋲の形が日本軍のと違う。敵が掘ったものだ。今人の姿は見えないが何かで一時引上げたもののきっと又来るだろうと思った。
 急ぎ帰って出発しようとした時下士官が一人来た。工兵隊の伍長で部隊とはぐれたとの事。やはりくつ跡を探して此処迄来たと云う。集結地を教えると一人足を早めて行った。私達も出発したが牛車が五十bも行かないうちに前方で自動小銃の連続音が聞こえた、さっきの下士官が走って来た。聞くと舗装道路に出た処マンダレ一方向から隊列を組んだ部隊が来るのが見えた。日本軍かと思って見ていると近づくや否や先頭の兵隊が銃を構えていきなり発砲して来たと云う。追って来るかと緊張したが追っては来ず、銃声も後しない。あの儀通り過ぎたのかと思ったが念の為偵察しようと牛車から降りたがその時牛車に掛けて置いた水筒を外して肩に掛けた。これも後で思えば神の啓示であったのかもしれない。私と工兵隊の下士官は薮を伝わりながら道路に近づいていった。
処が今度はすぐ間近で自動小銃のバリバリと云う銃声がした。もういかん、此の近くでは当然牛車も見つかる。
もう牛車に戻る余裕はなかった。 私は逆に薮を伝いマソダレーの方向に移動した。後で手槽弾の炸裂する音がした。私は沢井軍曹が自決したと思った。彼が一番重傷で歩くのが困難だった。銃声もしなくなった。私は薮からそっと顔を舗装道路に出し、直線の先の十字路の方を見た。歩哨が一人立っていてぶらぶらと歩いて移動していた。何時か小道の方に入る時もあるかと思い又覗いて見ると今度は見えない。今だ、私は一気に道路を横切り向こう側に移った。そして薮をくぐりながら大きく迂回して十字路の小道の先に出た。今度は一人ぼっちになった。痛む足を引摺りながらとぼとぼと歩いた。喉が渇く。水筒を肩に掛けていた事が有難かった。暫らく歩くうちに前方が急に開けて部落が見えてきた。バゴダも見える。敵が居るかも知れないと思ったが疲れて半分はもうどうにでもなれと云う気持ちもあった。部落の家々には周りに刺々の木を掻き寄せ、側に近寄れない様にしてあった。ビルマ人の男が一人戸の隙間から顔を覗かせていた。私は水筒を手に飲む格好をして水を求めた。男は笑いながら手を伸ばして水筒を受取り水を満たしてくれた。私は一気に飲み干し又水筒を出した。男は又水をついでくれた。私は頭を下げ謝して再び靴の跡を頼りに行くと急に降り坂になり、両側の薮が途切れ明るくなったと思うと目の前にミソゲ河の流れがあった。先の者は此処から舟で向こう岸へ渡ったのだろうか。対岸には舟も人影も見えない。
 その時ふと河下を見ると二百b位先で兵隊が渡河作業をしている。目をこらして見ると日本軍だ。私は岸に上って其方に急いだ、渡河は師団の工兵隊の中隊で丸木舟で一回に六、七人位づつ渡していた。主力は既に渡河し残りは十人位で曹長が指揮を取っていた。私は向こう岸まで渡して頂きたいと頼んだ処快く引受けて今度舟が来たら乗せて上げますと言った。一時間遅れていたら隊員も舟も向こう岸にいってしまっていたろう。此処でも私は神の導きを感じた。そして隊員が私を見て、水筒一ケ肩に掛けているだけで飯金も雑嚢も何もないでは食事に困るでしょうと言ってビルマ人の家を探して径十五代ソ位のコーヒーの空缶を探し、更に工兵の器用さか針金を探して下げる蔓まで付けてくれた。別の兵隊が雑嚢の様な物も探してくれた。前に坂口上等兵が私の装具を全部持って退避した儀帰って来ないので飯金の無いのが一番困っていた。その代用飯金が出来たのだ。親切な方々で厚意の程は決して忘れる事は出来ない。
 向こうの岸へ渡して貰った。此方にも部落があった。
川一筋で此方の部落では全く平静で一軒の家で庭先に折れ米の様な物を干してあった。私は飯を炊く代用飯金が出来たので米が欲しくなった。私はその家の主婦に「タミンサペーパー」 (米を下さい) とその米を指した。女は家の中に入ってちゃんとした白米を袋に入れてくれた。
私は女の厚意が有難かった。先に渡河した工兵隊の人達は飯金炊さんをしていた。私は隊長の側に行き感謝すると共に野戦病院を尋ねた。隊長は「詳しい事は分からないがあの山の裾辺りに開設されていると聞く」と言って向こうの山を指差した。山は遠く薄紫にかすんでいた。
 私は米も手に入ったが炊さん処ではない。山の方向に通じる小道を歩き始めた。足は腫れて重くそして痛みが走る。少し歩いては休み少し歩いては休みしているうちに日が落ち、月が明るく照らし出した。道端に横になっているとザクザクと軍靴の音を響かせながら先の工兵隊が近づいて来た。先頭の将校が「おい起きて付いて来い、敵が浸透してくるぞ」と注意してくれた。起きて歩き始めたがとても付いていけるものではない。忽ち又一人になった。
 月明かりに靴跡を止釈りに進んで行くと不意に横の薮の陰から「誰か」と推可された。「友軍だ」と答えると「何部隊だ」と折り返し厳しい詰門がとんで来る「祭りだ」と答えると更に「祭りの何部隊だ」と続く、「七十一部隊だ、お前は何部隊だ」と聞くと「七十一部隊」と答える何だ俺達の部隊じゃないかと思いながら「何大隊だ」と聞くと「水内部隊」だと云う、第二大隊だ。俺は連隊本部の小佐野曹長だけど大隊本部は何処かと聞くと向こうの大きな木の下だという。思いも掛けない自分の部隊の中に来たのだ。はやる胸を押さえて大隊本部に急いだ。水内部隊長が居た。第二大隊は連隊本部と行動する事が多かったので良く知っていた。其の時連隊本部へ連絡に行った将校が帰って来た。聞くと連隊本部は二キロ位先で此処から一本道だと云う。
 大隊長の許を辞して道を急いだ。然し自分の部隊の圏内に入ったと云う安心感か其の道の遠い事。途中から道は河の縁に副って続いている。見ると筏に武器や装具を積み、廻りにつかまって泳いでくる。此方の岸に上がった者は体を拭いて被服を付け、道端に横になって休んでいた。後から後から渡河が続いている。此処迄来て初めて分かった。此処で師団主力が渡河しているのだ。河が此方に大きく湾曲して流れが此方の岸に打ち寄せている。
流れに乗って自然に此方に寄って来る此の地点を選んだのだ。そして私の部隊は渡河の最中、敵の攻撃から守る為先に渡って歩哨線を展開して警戒に当たっていたのだ。
やっと連隊本部の位置に着いた。私は兵隊達が横になっている中に入ると死んだ様になって眠った。
 肩を揺さぶられてはっとして目を開けるとそこに村田副官の顔があった。「小佐野よく生きていたな、みんな戦死だとばかり思っていた」と温かく迎えてくれた。そして大隊行李が馬も車輌もなく行李の任務が無いからと上田軍曹以下九名にすぐ天幕で担架を作らせ、野戦病院迄送って行く様指示した。全く破格の扱いで自分の部隊に帰った有難味と云うか温味を身に診みて感じた。始めは行ける処迄と牛車に乗せられ、次第に道が細く急になり牛車が通れなくなると担架で搬送になり、三日目にやっと野戦病院の標識のある処に着いた。上田軍曹が野戦病院に連絡に行ってくれた。野戦病院と言っても寺でも利用出来れば上々だが野戦では大きな木の下を利用する事も多い。連絡の結果五十b程行った処に広い自動車の通れる道路があり、其所に大きな木が立っている。今日夕方兵端病院の自動車が患者を引取に来るから其の木の所に待っている様にとの事だった。送ってくれた行李班の人達は病院へ行っても満足に食事が出来るか分からない。
と言ってビルマ人の家から米を探して来て例のコーヒーの空缶で炊飯してくれた。其の厚意と親切が有難かった。
担架を解き天幕は背負袋の代わりになった。
 夕方近く平砧病院のトラックが患者を引取りに来た。三輌だ。私は行李班の人達に感謝し別れを告げ乗車した。この人達と再び会う事が出来るだろうか。野戦病院は患者を平祐病院に引渡すと直ちに移動するとの事で、私はあと一日遅れたら野戦病院も居なくなり平砧病院にも収容して貰えなくなる処だった。私は手を合わせて神様に感謝した。流石に平砧病院では白衣の看護婦が居た。病院では戦線が四十キロの近くに迫ったと緊張していた。二、三日すると病院は後方への患者の転送を始めた。
 こうして後方への転送を何回かするうちに先に私達の部隊がインパール作戦に行く前、タイ国のチェンマイからビルマのトングーに抜ける自動車道の構築作業をしていたが、途中で菊兵団に申し送り完成されたその道路に出た。そしてその道路を通り歩いて泰緬国境の山岳地帯を越えチェンマイに下がる事になった。十二名の患者に軍医一名衛生兵二名を付けて五月九日サルウイン河を渡河した、河を渡った所に糧株交付所が開設されていた。
私は早速グループの糧株受領に行った。交付所に行きふと見るとマンダレーの王城の中で野戦倉庫から命令受領に来た木下伍長が居るではないか。木下伍長は奇遇を喜び、「これから山岳地帯を越えるのですが此の先は何所で糧株が受けられるか分からないです」と言って、実際は十五名のグループに四十名の伝票を書いてくれ過分な糧株を受領した。糧株と言っても籾だ。木下伍長に「抱く処が無いだろうか」と聞くとすぐ近くを教えてくれた。
すぐ側に薪が山と積んであった。私達は薪を焚きながら二宮金次郎宜しく足でコットンコットンと一晩中籾を掩いて明け方白い御飯を食べ、掩いた米を配分して背負い、チェンマイに向って山越えに掛かった。途中に豹の襲撃を防ぐ為夜間焚火を絶やしてはならないとの標識が立ててあった。
 山越えを始めて二日目、犬を連れ猟銃を持った若いタイ人が従者と共に私達を追越して先に言った。昼過ぎ道端に犬が傷ついて死んでいた。其の時は何で死んだか分からなかったが、夕方道路工事の時の宿舎に着いたら先に来ていた兵隊達が腹に蓼みる様な焼肉の煙を立てていた。話を聞くと途中で犬が豹を追い出した。然し結局は豹に倒され、豹は男達の銃で打たれた。男は豹の皮をはいで持って行ったが、肉は通り掛かった兵士達に呉れたと云う事だった。標識は現実になった。夜の焚火は片時も絶やす事は出来ない。行けども行けども次の糧株交付所は無かったが木下伍長の情の糧株の御蔭で、私達は補給を受け無くとも国境の山岳地帯を越す事が出来て、漸くタイ国のメーホンソンに着いた。
 砲弾の傷は、日がたつにつれて小さい傷からだんだん治って来た。脛からはとうもろこしの粒大の骨が出て来たが、此の骨を砕いた砲弾の破片は出て来ない。けれど其の傷もふさがって来た。一番ひどかったのは、左足の第二祉の付根から三純ソ程上がった処で、骨が折れた状態で表面に突き出ていた。平砧病院の軍医が整で削ってくれた。金鎚で整を叩くとコソコソと足の骨を伝わって体に感じて来る。削った後両側の皮膚を引っ張って縫い合わせてくれた。此の傷も既に糸も取れてきれいになっていたが、其処から一a上がった処の傷口はなかなかふさがらない。包帯を取って見ると細かく砕けた白い骨が傷口に見える。其れを取り除いて包帯をして歩く。二、3日して包帯を取って見ると又小さい骨が傷口に出ている。
こうして此処だけ傷口がふさがらなかったが、十三番目の骨が出たら始めて薄い膜が出て傷口がふさがった。これで終わったのかと思ったら四、五日して又骨の尖った先で膜を押し上げていた。其の骨を取り除いたが其れが最後で、すぐ膜が出て傷口は完全に塞がった。内部に散らばっていた骨の破片が、歩いていた為次々と傷口に押し出されて来たのだと思う。
 メーホンソンはタイ北部国境の重要な町で第二大隊が道路工事の時の前進基地であり飛行場もあった。然し此処にも糧株交付所は無くて、同行の将校が、自分の拳銃をタイ人の米と交換して皆に分けてくれた。
 炊飯で苦労したのは代用飯金のコーヒー缶だった。底の隅の処がどうしても良く炊けない。飯盆が欲しかった。
後方に下る者の中に将校が居た。年取った少尉で召集されたのだろう。見ると背負袋に飯金を二つ付けていた。
聞いて見ると一ケは副食を炊くのだと云う。副食ならコーヒー缶でも出来る。私は真剣になってコーヒー缶と、飯会を取り替えてくれる様頼んだ。がなかなか聞いて貰えなかった。次の日も一緒に歩きながら、此の人以外に頼む人はいないと思い、繰り返し懇願した。その人も遂に根負けしたか、私の真剣なのに押し切られたか交換してくれた。私は心から感謝した。其の飯金と先の天幕と水筒は私の命を支えてくれた物、今でも私の宝として大切にしている。
 漸くアンポパイに着いた。此処でやっと白米の交付を受ける事が出来た。そして此の地の有力者が、ビルマ方面から下って来る日本軍が傷つき疲労困葱している姿を見て深く同情し、大きな鍋に豚肉とニンニクを入れた粥を炊き、若い男二人に担がせて来た。飯食の蓋に一杯づつ配られたが其の旨かった事。タイでは重病人に与える食事と云う事だった。
 アンポパイをたって三日目に前に此の道路を作る時連隊本部のあった処を通過した。然しチークの菓で葺いた宿舎は跡形もなく、唯当時踏み堅められた通路の後が、生い茂る草の間にそれを物語っているだけだった。
 そして後三日もすればチェンマイに着くと云う時に、此処迄来れば大丈夫だと同行の者にせがまれて、それまで腰から離した事の無かった手樽弾を川に投げて魚を取り、暫く振りの御馳走となった。一度は此の手樽弾で自決し様とした自分が今此処に居る。私は胸中感慨無量だった。
 そして六月二十四日遂にチェンマイの平砧病院に到着した。此処ではビルマから下って来た兵隊の体力の回復を重点に、食事は充分に支給されやっと生き返った様な気がした。そしてドラム缶で硫黄合剤の風呂を沸かして全員を入浴させた。ビルマから下って来た兵隊は殆どの者が、足を風土病の介癖で悩まされていた。私も傷の外に、此の介癖では随分辛い目に遇った。毎日歩くと下肢が張れ、熱を持って痛かった。私は毎日此の硫黄合剤の黄色い風呂に入った。
 八月十五日、日本は戦争に負けた。降服したと言った噂が流れた。通信関係の者が無線を傍受して流したらしい。病院長が皆を集めて其の様なデマに惑わされてはならないと訓示をしたが、次の日にタイ駐屯軍を経て南方軍からの電報で、無条件降伏、終戦となった事が改めて伝達された。
 そして、病院と共に南へ下り、バンコクの北ナコンナヨクで病院と別れ、近くに居た歩兵第八連隊に編入になったが、復員の日が近づくと共に、郷土の近い部隊でまとまる様にとの命令が出た。関東で編成された濁立自動車第百一大隊が近くに居たので其方に編入替えになり一緒に復員する事になった。
 原隊には遂に戻る事は出来なかった。
 自動車隊は周辺のキャンプで乗船を待っている部隊に対し、食糧を輸送しなければならないのでキャンプの撤収は一番最後になった。
 やっと待ちに待った乗船の時が来た。メナム川を船で下り、洋上で縄梯子を使って武装を外した空母葛城に乗船した。三万三千トンとか云う事で、始めて見、始めて乗る空母は正に浮かべる城其のものだった。
 そして昭和二十一年六月二十日浦賀に上陸、よく二十一日二度と見る事は出来ないと思っていた故郷の山野を目にする事が出来た。私は幸運に恵まれ、神仏の加護に依り、こうして生きて祖国の土を踏む事が出来た。然し歓呼の声に送られて共に出征した多くの戦友が、異郷万里の地に今尚屍を晒している。振り返って見れば、私は地獄さながらの凄惨な戦場を身を以て体験した。そして戦場となって荒廃する国土、戦禍に巻き込まれる住民の苦難、敗戦の屈辱と志気志操の喪失等厭と言う程此の目で見て来た戦争は避けなければならないと身に診みて思う。それには外交上の努力も大切だ。それと共に外から付け込まれない為の戸締まりも必要だ。治安が良好と言われる国内でさえ、戸締まりをしないと坂本弁護士の様な目に遇う。国と国とでもどんな不心得な考えをもつ者がいないとは限らないのだ。
 戦後五十年幸いにして日本は平和を享受している。然しアメリカ、中国、ロシア、の大国と韓国、北朝鮮に囲まれ、戦略上最も重要な要に位置する日本として、国の安全の為の戸締まりを決して怠ってはならないと私は思う。

戦争体験について

大石 久作

 戦後半世紀たちまして忘れた事が多く文にはなりませんが、忘れられない数々の事があります。それを箇条書きに書いてみます。
 昭和十九年十二月、今思えば戦争末期ですが勝山村浅間神社鳥居前で村の役職者在郷軍人国防婦人会等皆様に見送られて友人と二人勇ましく出発しました。その頃の挨拶が行ってきますでなく帰る事は考えず元気に参りますと行って出かけました。甲府駅前に山梨県全員集まり身延線で富士駅を通り四国愛媛県松山の城跡に日本中から航技兵として飛行機の経験のある人が集まり一つの部隊を作り満州に行く予定だったが、伝染病予防の為一ケ月毎日藁布団干しをやって明けて昭和二十年正月博多から朝鮮(現在)韓国を通り旧満州国四平街に到着。満州第十一野戦航空修理廠八三六七部隊、部隊長西村松太郎大佐此処に所属して八月十五日終戦の日迄努めました。
 技術部隊なので軍事演習はまあまあだった。でも関東軍と言われて夜の内務班の気合いの入れかたは毎晩おそろしかった。
 昼間はその頃から連日のように沖縄に特攻隊の飛行機を送るためエンジンの整備に明けくれた。そのしごとは内地で五年間やっていた事で初年兵だけれど先輩の人達に教える位の技術がありよろこばれた。
 ただ今でも忘れられない、映画で見るような場面営庭に机を並べ白布をかけて酒とスルメで別れの盃をかわし勇ましく若い二十才前の飛行士を旧型の九七戦といわれた戦闘機で送り出した。何日も何回もいつまでも手を振って送った。送る者も送られる者も当然のように御国の為と万歳万歳と日の丸を肩に飛んで行った若い人達の姿が瞼に残ります。
 終戦の日は部隊長命令で何の混乱もなく武装解除剣迄取り上げられるとさすがに心細く満人の仕返しが恐ろしかった。これで戦争は終わったわけだが私にとっては忘れられない。此れからソ連の描虜となって二年八ケ月に及ぶ抑留生活の始まりでありました。ある朝点呼で並ぶと、いつの間にか回りをソ連兵がマンドリンといわれた自動小銃を脇にかかえて囲まれていました。ただただ部隊長の命令のままに整然と行動しました。
 間もなく貨物列車に下半分に米とか砂糖が積み込まれその上に兵が乗せられた。大勢で話し合った。どこへ行くのか、北だ東だと、そのうえ黒竜江を渡った。それでもウラジオストックに出て、日本に帰れるものと思っていたが、誰かが西へ西へ向っていると叫んだ。此れで終わりだモスクワで裸にされて行進させられると思った。
シベリアの旅が始まった。途中バイカル湖畔に出た。地図で見ると小さいが湖畔を通過するのに丸一日かかった。
長い旅で飯金で飯を炊きながらの一ケ月で、タイセットにて乗り換え何日かして収容所に着いた。四方を鉄線で囲まれ四隅に監視兵が見はりに着いていてああ描虜だなと痛感した。住居は上下二段の蚕棚で暖房は充分であったが、夜南京虫になやまされ柱の割れ目にぎっしりつまっていて毎晩焼き殺してから寝た。
 入浴はサウナ式で湯は桶に二杯しかくれなかった。週に一回で、出ると誰のかわからない洗濯消毒したものを着せられ品物はすべて共有である。食事は朝黒パン一切れと高梁のスープ、昼食は弁当で高梁のおにぎり一ケ分位と魚一切れ、足りないから骨だけ残して朝皆食べて骨だけ飯盆に入れて仕事に出かけた。
 昼食は骨の塩分で作業場の草を取って煮て食べた。草がなくなる程皆同じようにしてすごした。作業は毎日で冬零下四十度迄やらされた。仕事は立ち木の伐採三人一組になって直径六十糎以上の木を三本倒して長さ四米位にして一ケ所に山にまとめる。道具は二人引きのノコギリとタポール(金太郎のマサカリの様なの)一丁だ。雪の中の大仕事だ。楽しみは休み時間に雪の上にユリの花と言うか実をみつけて雪をタポールで深さ三十糎位切って掘り取り尚其の下の土中からユリの球根を取り生のまま食べた。この外に貨車に材木の積載があった。此れ又大変で足場に三本の丸太を立てかけてその上を大勢でよいしょよいしょと押し上げる。十二段積み上げる作業、大変にあぶない仕事だった。
 次にこんな仕事があった。家の中で厚さ六糎か七糎の板を壁に立てかけてタポールでスコップ状にけずり雪かきの道具に使う。これは室内作業で皆に喜ばれた。
 冬の仕事は大変だった。作業場への往復の道中バタリと倒れる人がいる。栄養失調と凍傷の為である。何でもノルマがあって達成しなければ食事を減らされる。食事が足りなければ充分働けない、矛盾したことで腹一ぱい食べればいくらでも仕事をやれるのにと思った。
 シベリアと言えばいつも寒いと思っていたが夏の暑さは又格別で又その上にブヨ (蚊のような血を吸う虫) が暗くなる程発生しカッパを着て蚊帳の帽子をかぶり作業に出た。主な仕事はコルホーズと言われた作業の手伝い、馬齢薯の種まき、面白かったのは芋をごまかして生でゴリゴリかじった。小麦が良くできて豊作だった。此れも手で脱穀して水筒に入れて持帰り皮のついたまま煮て食べた。
 牧草刈りエンドウを刈って背丈位の山に植えて行く。
又そのかげで種をとり食べた。何をするにも食べる事に結び付けて考えた。
 毎日朝でも晩でも共産党の教育で洗脳するのに天皇制の批判、自由主義の批判、国へ帰っても焼け野原で何も出来ない。と言う話ばかりだった。反対しないで判ったような顔をして聞いていた。中には感化されて指導員になる人もいた。
 毎晩寝ながら各人それぞれ出身地の食物の話をしながら空腹をごまかしながら寝た。
 哀れなのは亡くなった人だ。全部裸にして葬る。着衣は消毒洗濯して他に又回して着る。
 病気で主なものは栄養失調、シベリアの女医と日本の軍医が立会って見る。お尻の皮をつまんで重みにより区別する。私も使いものにならない四級になってダモイ(帰る)事になった。
 帰りの道中は何度か失神したりしながら戦友の助けを借りて帰ってきました。
 まだまだ書ききれないほど色々な事がありました。又機会がありましたらその時に。
 最後に亡くなられた六万人の人達の御冥福を祈ります。

軍馬日誌

宮下 秀雄

 夏とは言へど此処青森の牧場、東京方面では相当な暑さであろう。北の国の真夏は、どんな暑い日でも、十八度以上登った事はない。気持ち良い風が青草の頭をなでて行く。きょぅも朝から、母馬と共に楽しく遊んで居る。
向の丘彼方の草むら、どこを見ても我等同胞の楽しく自然に、たはむれる姿である。何んの苦も無く三ケ年は、此の慶大なる牧場に育って来た。やがて夏も過ぎて、気持良い初秋の風がうす黄色い野原に、秋の深まるのを報知するかの如く感ずる時と成った。毎年々々我等の兄等は夏から秋に掛けて、定まって此の住み馴れた都を後に、新しい希望にもえて、実社会に跳出して活躍し開拓するのだ。其の多くは、大陸に内地に軍馬と成って奉仕するのだ。秋晴れの気持ち良い日の午後だった。澄み切った青空の下で午前中の運動のつかれか、ついうとうとと、草原に横たはって居た。ふと目をさますと、うちの兵隊と牧場主とが手に人参を持って、何やら言いながら歩いて居る。同胞達は我先にと此の好物な人参目掛けて集まって行く。私も思はず飛び起きて、大地を蹴って、其の人達を取り囲んだ。其の中の将校と見える人は、手に鉛筆とノートを持って居る。他の人は、腰の袋の中から小さく切った人参をつまみ出しては、我等に与へている。私も思はず其の中で一番おとなしさうな兵隊の前に出た。
其の兵隊さんは、やあ、この馬はすごいと言いながら、私の鼻へ手を当て、腰の袋から一つかみ人参を出して、手の上にのせ、私の鼻の前に出した。私は得意になって、ペロリと二・三度なめると、無くなった。でも未だ呉れると思って、其の兵隊のそばをはなれなかった。将校らしい兵隊さんが、其の馬はと言いながら、私の方を指さした。すると牧場主は、はい。此の馬は、年は四才。栗毛でアラビア系です。名前は友信号と言います。と説明して居る。鉛筆とノートを持った兵隊さんは一々書いて居る。私の腰の辺りをなでたり、後足を上げて見たりする兵隊も有る。私はなすままになって居た。其の人達はずっと牧場中廻ると、日が西の山に入る頃、帰った。こんな日が有ってから、一週間目の或日の事だった。或る目新しい手綱と飼袋とを持った兵隊が牧場内に現れた。
我々は異様な限を見張った。同時に此の間の様子から見ると、愈々私も、晴れの活躍を開始する事が出来るのだと思った。どこへ行くので有らうか。牧場の人達は、手に四角の小さな札を持って居る。其の札には皆、細いヒモが付いて居る。二・三人の人に取り囲まれて、私も生まれて始めて耳から鼻に掛けてしっかりと、新しい綱に依って結ばれた。口の中には小さな金で出来たものがはさまれていて何だか馴れない為、一寸はき出したい様な気持ちもする。時々歯に当たるので尚更、変な気持ちだった。でも、こうすると、何だか顔が引き締まる様な気もする。一間ばかり先で手綱を持った兵隊さんが綱を引くと、其の度に口の中の金具が口の奥深く入って口角をしめるので、どうにも自由が利かなくなる。人間のなすままに成るより外、仕方なかった。手綱を持った兵隊さんが案外この馬は和順ですねと牧場の人達と話して居る。
其の中の一人が先程の木の札を私の首に、結び付けて呉れた。其の札には友信号、栗毛、四才と書いて有る。私の前足のツメには十五日程前に牧場の人達に依って五〇六と言う番号が掘付けられて有る。其の将校らしい人は、首の札と足の番号とを照り合わせて、見た上で牧場の入口の方へ引っぱって行かれた。生まれて始めて此の門を出るのだ。我々の同胞は後から後からと付いて来る。私も列の中頃に成って、前の馬のすぐ後から付いて行った。
っいに我々も社会に出て働くのだ。新しい希望で胸は一杯だった。それと同時に、過去三年間生活した此の牧場がなつかしく思はれて来た。いろんな事を思って居る中に、ついに門の所まで来た。振りかえれば、今まで生活した都は秋風に吹かれて、そよそよと草むらは音を立て名残をおしんで居るかの様である。始めて門を後に外へ出だ。今までの世界とは全く異なって居る。軍馬育生所と書いてある。門も次第に遠く成って行く。どこえ行くので有ろうか。早く知り度かった。五・六丁も来たので有らう。まだ牧場の人達の見送りは、帰る様子もない。
今まで色々面倒を見て戴いた。其の恩を思へば、懐かしさが一層胸にせまって来る。過ぎた日の事を連想して居る内に、私の足は何だか一面のかたい平な道を歩いて居るのに気が付いた。生まれて始めてこんな道を歩くのだ。
足がつるつるする様な、くすぐったい様なすべる様な感じがする。あたりは見馴れないキレイな家が軒をならべて立って居る。四ツ串で、すごい勢いで私達とすれすれにすれ違って行くものも有る。其の度にヒヤッとする。
中には斯く者も有る。私も手綱の持った兵隊の背に顔をすれすれに寄せて付いて行った。私達の列は、二丁も三丁も続いて居る。見るもの聞くものすべて珍しいものばかりだ。大よそ、一時間位い歩いたろうと思う頃、駅前の広場に出た。今までずっと青森県八戸市を歩いて来た事がわかった。駅の入口には白い大きな字で筆太に尻内駅と書いて有るのが目立だった。今まで見た事もないキレイな婦人や駅の前はすごい雑踏を極めて居た。私達は駅の前広場で休憩する事と成った。兵隊達は一人で私達の手綱を四頭位い一所にして持って、他の人達は皆手にズックで作ったバケツの様なものを持って、水を汲んで来て呉れたが、こんなもので水を飲むのは始めてである。
今まで歩いて来た為かノドは相当乾いて居るが、何だかゴム臭い様な変な匂いがして、ノドを通らない。兵隊の一人は私のノドに手を当て、水をのむ回数を数えて居る。
でも五・六回のんだ口を二・三度なめた。牧場の人達は此の辺で帰るのであろう。持って来た人参は全部私達に与えて呉れた。人参に依って始めて、口の中の気分の悪いのが取れた様だ。兵隊や見送りの人は煙草をのみ、色々の話をして居る。此の間、駅内では盛んに列車が物すごい音を立て、行ったり来たりして居る。やがて私達は駅の横丁から、ホームに出る事と成ったらしい。自分の鉢がようやく通れる位の狭い所を通って、中に入った。何だかこわい様な気持ちがした。私達の仲間でも気の小さなのは中に通らなくて、兵隊さんに骨を折らせて居るのもあった。限の前には物すごい大きな貨物列車が延々長城の如く並んで居る。ホームから串にのるので有る。前の方から次第に順序よく積み込まれて行くが、仲には仲々貨車の中に入らないのも居る。兵隊や牧場の人達は汗だらけに成って苦労して居る。どうしても貨車の中に入らなくて頭から南京袋をかぶせられて、尻に綱を掛けて両側で其の綱を引かれて大きな丸太で尻をなでられてようやく貨車に入るのも居る。そんな事で私の番までは相当畷が掛かった。私も中央の貨車に乗せられた。何だか中は実っ晴でさみしい様な気もする。一つの貨車の中には六頭入るので有る。片側に三頭向かい合って三頭、真ん中が人間一人漸く通れる位の巾しかない。私達は顔を向かい合わせて、此のせまい貨車の中の空気に見取れて居た。何にしてもせまくて苦しい。身動き一つ出来ない始未だ。隣りの馬との間も全然なく、横腹と横腹とがくっついて居て、ハエが来てもカが来ても尾を振る事さえ自由に出来ない有様だった。外の方では何だか忙しさうに歩いて居る様子だ。大よそ五十分くらいして、一人兵隊が私達の貨車の内へ入って来て、干草を一束持って来た。
其の兵隊は干草に腰を下ろして、今入って来た。窓から外の方を眺めて居る。私も結び付けられた。綱にアゴの所を持たせて、外の方を見た。他の馬等も皆、力がぬけた様な格好で首を投げ出して居る。牧場の人達がお願いします。と言うのが時々耳に入る。間も無く発車であろう。ピーと汽笛が突然鳴った。思はず後ろへ尻込みした。と同時に、今まで動かなかった貨車は静かに前進を開始した。私は思はず四ツ足を踏ん張って、身体の動かない様にささえた。足の下ではゴウゴウと物すごい音を立て走って居る。兵隊は相変わらず、干し草に腰を掛けて、私達の様子を度々眺めて居る。私達も今と成っては此の兵隊さんが何よりの頼みで有る。それから三・四時間位走ったと思う頃、貨車は急にスピードを落として止まった。「宇都之宮宇都之宮」と呼ぶ聾が車外に聞こえる。
すると兵隊は素早く窓を開けて、飛び出した。調度、昼頃で有ろう。兵隊は、水筒に水を一ぱい汲んで来て、私達に与へて呉れ、それがすむと飼袋の中に大麦と人参を小さく切ったのをまぜて、それを私達の頭に掛けて呉れた。なんとうまい具合に人間は考えるんで有ろう。最後に少し残れば、首を少し上下に振ると大麦は残らず口の中へ入ってしまった。私達の食事をして居る間、兵隊さんも飯金を出してヒザの上に置き、干し草に腰掛けて、うまそうに食べて居る。食後三十分位い休んだと思った頃、貨車は又、発車した。兵隊は窓を少し開けて、外の景色に見取れて居る様子だ。涼しい気持ち良い風が車内に入って来る。列車は今、東北本線を東京に向かって走って居る様子だ。午後の六時。朝から身動き出来ないので、相当な疲労を感じて来た。午後七時。列車は又、小さな駅に停車した。外はもううす暗く成って居た。此所で又、例の如く夕食をすました。其の後、何時聞か過ぎたであろう。自分は、今までの疲れからつい深い眠りに入って居た事を知った。兵隊さんも寝て居る。どうやら、明け方の様子だ。車内の薄暗い電灯は消えて、気持ち良い朝の光が窓を通して車内に入って来る朝だ。兵隊も限を覚まして、窓より首を出して眺めて居る。長い間の列車内の生活。全く疲れた。列車は止まる。津田沼駅と呼ぶ聾が聞こえて来る。どうやら終点らしい。外は次第に賑やかに成って来た様子だ。兵隊は素早く飛び降りた。私達は四十分位掛かって、朝の津田沼駅に降ろして頂いた。
うれしさのあまりピソピソ飛び上がって兵隊を困らせて居るのも有る。其の度に所所でオーラオーラと言う兵隊の声がする。私もグーッと身体を伸ばしてブルプルと身体を四・五回振った。一昨夜の疲れが一時に去った様な良い気持ちだった。駅前広場は、私達を迎える為だろう。
兵隊さんが、沢山並んで居る。私も、間もなく其の広場に引き出された。其の中の将校らしい兵隊さんがノートを見ながら、点呼を開始した。相当の時間が掛かった。
やがて、昨朝歩いた事の有る八戸市の道路と同じ様なアスファルトの上を進み始めた。此処はそんな賑やかな町ではなかった。道路の両側はバラバラに農家が見える。
全て田ボと野原だ。およそ三十分歩いたと思った時、左側の目前に綺麗な大きな門が見えて、そこに銃を持った兵隊さんが一人立って居る。ああ、私達は此の連隊に入るので有ろうか。右側の門の柱に鮮やかに騎兵第十六連隊と書いて有る。私達は此の門をくぐって中に入った。
調度昼頃に成って居た。私達は門より一丁程行った所の、新しい馬屋の中に入った。途中の馬屋は我々の先輩がきまり良く尻を揃えて並んで居るのが目に付いた。此の新しい家は、我々が入って来る為新しく作られたものと思った。其の中には、すでに兵隊の手に依って新しい藁が一尺通り位敷かれて有った。馬と馬の間には、横木が有って、仕切って有る。私も左から二番目の馬房の中に入った。長さ一米半位のクサリに依って、私達はつながれた。
思い出せば、今までの自由な生活が急に懐かしく成って来た。と同時に、今までの疲れが全身に感じて来た。私ほ、横に成ってグッと足を伸ばして、寝てしまった。それからどの位時間が過ぎたか、ガヤガヤと言う人声に目を覚ました。兵隊が大勢入って来て、色々の話をしながら、私達を端から見比べて居る。こうやって私達が此の隊に入って来てから二・三ケ月。現在の様な生活にも少しは馴れて来た。私の馬房の上の方には、長方形の板に白いエナメルで上の方に栗毛友信号五才。佐野調教手と書いたのが、ぶら下がって居た。他の馬房にも全部見えた。以来私は此の佐野調教手に依ってかゆい所に手の届く様、面倒を見て戴いた。どんな寒い日でも朝夕、私達の身体にハケを掛けて、つめたい水で足のツメを洗って油をぬって呉れた。最初は馬場に出て、長い綱を付けて、其の綱の先を調教手が持ち、片手に竹棒を持って後からシッシッと言うので、私は円形を描いて馬場の中を歩いた。こんな事を二時間もされたなら、私達の体は汗だらけに成ってしまう。うんと水も飲んだ。又、食べもした。
お陰で自分乍ら牧場に居た時にくらべると、ずっと身体も太った様な気がする。私達は、一日中のつかれを休めて毎朝元気な顔で此の調教手と顔合わせするのが、一番楽しみだった。調教手も早くから来て、我々の鉢を頭の先からツメの先まで、点検して異常有無を調べるのが朝の日課と成って居た。寒い木枯らしの吹く日だった。調教手に連れられ私は、未だ一度も来た事のない工場の前に来た。そこには多くの兵隊さんが白い作業衣を着て、真っ赤に成った鉄をトンチソトソチソ勢い良くのばして居たのも有れば、ピンセットの大きなのでそれをはさんで、器用に延ばして居る。やがて真っ赤に焼けた鉄をはさんで来て、私の前足を持って居る兵隊に渡した。兵隊はしっかりと足をおさえて真っ赤に焼けた鉄を私のツメに当てた。私はトタソに少し前へ出ようとしたが、足をしっかり持たれて居るのでどうにも成らなかった。と同時に、こげる様な匂いと共に、煙がもうと顔の辺りを覆った。しばらくすると又、小刀でけずり始めて、こんな事を何回くり返して居る内に、足には完全な鉄が打ち付けられた。大体、三時間位の時間を要した。最初は、何だか足が重い様な気がしたが、二・三日達つと、何とも無くなって歩く度にコツコツと気持ち良い音を立てた。どんな悪い道でも平気に安心して歩ける様になった。四・五日の中に私達仲間の者は全部鉄を付けられた。
 今日は朝から小春日和の気持ち良い天気だった。調教手が大勢揃って、鞍と轡を持って入って来た。佐野さんは、私の背に毛布をのせて其の上に鞍を置き、ギユーと腹帯を締めた。背中に鞍がピソとくっついて、腹が引き締まった様な感がした。調度、背中の形に出来て居るので、全然背骨には当たらなかった。それが終わると、今までつないで有った金具のトウラクを外すと、やわらかい草で出来た轡を装せられた。口の中には例の金具が二本入れられた。其の一本は真ん中で少しまがって居る。
私は二列に成って外に出た。何時も引き廻される馬場は通り過ぎた。アスファルトの道路が終わると、そこで全部たてガミを握られて乗馬した。別に苦痛も感じなかった。三十分ばかり行くと、青森に育った時の牧場より、尚広いと思はれる原に出た。春の訪れか、草の若芽は青く地上に首を出して居る。西も東も一寸見当の付かない一面の原だった。それにしても思い出すのは青森の牧場の事だ。牧場もさぞ変わった事だろう。牧場の人達は元気であろうか。こんな事を考え乍ら、最初は並足早足掛足と、気持ち良く大地を蹴って飛び歩いた。力がぬけると、佐野さんは長靴に付いて居る柏車で軽く私の横腹をつつく。私はくすぐつたい様な、いたい様な気持ちで、又駆け出す。止めたく成るとグーツと手綱を引くからたまらない。口の中にクワヘて居る轡金のまがったのが舌をおさえ付ける。いたくて、前へ行く事も何をする事も出来なく、其の場に止まってしまう他ない。人間なんて全く、うまい事を考えたものだ。ハリ辛が自動車の加速ペダルで有ったなら、大口クは何だかおそろしい様な気がして一思いに飛ぶ事は出来なかった。二・三度やって見たがどうしても駄目だった。障碍の直前まで来て止まってしまった。でも、背の上の佐野さんは、あきらめる様子は更になかった。障碍の右の端をまはって行こうとしても右の手綱を強く引くので、向こうへ行く事は出来なかった。何回も障碍の先二十米位の所から、真っ直ぐに障碍に向かって走った。私も今度こそと、まっしぐらに障碍目掛けて行った。二・三米の前に来ると、ソラと言ったら柏事で横腹をボンと蹴った。どうにでもなれと前足をちぢめて一気に乗り切った。其の時は全身汗でビッショリに成って居た。私は今までに、今日程身体の疲労を感じた事はなかった。其の後は此の原に一度は必ず障碍を飛ぶのが習慣の様になって来た。こんな色々の事を教育されて居る間に、此の十五部隊に来てから一ケ年の歳月は流れた。時、昭和十四年九月だった。私も過ぎた一年の調教に依って、自分でもどうやら一人前の軍馬と成った様な気もして来た。体の方も身長一米六十六、体重四百八十キロと言う。どうどうたる体つきと成った。気持ち良い初秋の風が此の習志野にも訪れた。私達もどうやら、一通りの教育も終わったらしい。十月の初め、私達は、愈々一人前の軍馬として各部隊に配属させられた。
私の来た所は、○部隊○班だった。そこには、すでに先輩が大勢居て、私達を迎へて呉れた。同じ班に行ったのは、私ともう一頭の盛春と言う黒影の馬だった。体はあまり大きく無かったが、物すごい元気な馬だった。私の戦友は、一昨年入隊した。鈴島号。この先輩は私の右側の馬房に居た。左に居るのが一緒に入った、盛春号だった。私の馬房は北側の左から五番目だった。設備に置いては此の前居た馬房と全然異なっては居なかった。只調教手が兵隊と変わっただけだった。以来私達の面倒はすべて兵隊に依って、見て戴く事と成った。四、五日すると私の馬房の上の馬名札に、友信号栗毛六才木谷一等と書いたのがぶら下げられた。そこで今度の私の主人は、木谷一等兵で有る事が分かった。が、未だ、五日や六日では同じ様な格好をした兵隊ばかりで、どの人が私の主人の木谷一等兵で有るか皆目見当が付かなかった。早く其の人の顔が見たい様な気がした。何だか今までと異なって、馬屋の中が急に賑やかな活気付いた様な気がした。
秋晴れの天気が毎日続いて居る。朝夕は少し寒さを感ずる頃に成った。朝五時、兵隊さん達は、白の作業衣一枚で元気良く駆け込んで来て、馬屋番勤務御苦労様でしたと挨拶して居る。確かに馬屋番は御苦労のはずだ。夕方の六時から其の明くる日の六時まで二十四時間は、夜も寝ずに、私達を監視したり掃除をしたりして居るのだ。
全く感謝の他はない。朝皆が来るまでには、ワラのキレ一切ない様に清掃されるので有る。ここで付け加えて置くが、私達の糞を兵隊はポロとよんで居る。私達も此のボロを一日には数回やるので有る。それが何頭も居るからなくならない。一夜の中にひと山出来てしまう。其の馬屋番は、私達のやったポロをゴミ取と木で作った、小さな熊手の様なものではじからキレイに始末して呉れる。
実に気の毒な事だ。掃除が終わったり、ボロ取りが終わったりすると、今度はオシ切りを持って来て、私の一日中の食事とする。切ワラを切り始めた。数が多い為、相当な時間を要して、汗だらけに成って小切って居る。私達の休む間も全然休まない。こうやって朝多くの兵隊の来るのを待って居るので有る。兵隊達は、朝早くからシャツ一枚で私達を引き出し水与えをすますと、軒下の馬撃場につないで呉れた。それがすむとモッコを持って来て作夜、私達の寝たワラを全部モッコにのせて外に干し、内はきれいに掃除して飼船の中には、朝の食事が準備された。私達の殊には、金グシやハケでこすって戴いて、足は水洗いし油をぬって呉れた。全く気持ち良い感じだ。
こうやって私達は、完全に今日一日働く準備は出来た。兵隊達はこれだけの仕事をするのに、五時から六時までの一時間位の短時間で終わってしまう。実際活発に動くものだと感心した。私達も限の当たりに、此の兵隊達の活躍を見せ付けられて、思はず君家の為大いに働こうと決心した。でも他の馬連にくらべると未だ新馬の関係か演習に出る時も案外少なかった。兵隊は、夕方五時位になると、またシャツ一枚に成って朝干した所の藁を掛聾も勢い良く、入れて呉れるのである。お陰で私は一日のつかれを、充分気持ち良く休める事が出来た。こんな生活も三ケ月位では夢の如く過ぎて、早正月を迎えた。私も七才と成った。兵隊さん達も年末の休暇やら、祭日やらで面白そうに遊んで居る。私も完全に一人前の軍馬で有る。もう私達も大体班内の兵隊さんの顔も覚えたし、一人一人の心持ちもようやく覚えて来た。仲には物すごい短気な乱暴な兵隊も居るし、そうかと思えば、とても可愛がって、やさしく面倒を見て呉れる兵も有る。万物の霊長人間でさえ、斯の如くで有る。ましてや我々馬に於いては、これ以上だ。これだけは、どうにも修正する事は出来ない。元来私達は、蹴る事も噛み付く事も全然知らない。けれども一般の世間人は、馬と言へば蹴ると噛み付くより外、何も知らない、何如にもおそろしい動物の様にしか思って居ない様だ。誠に残念な事だ。私達も長い顔をして人相が悪いから仕方ないと思っては居るが、其の原因は大体人間に有ると言ってもたいした問題ではないだろうと思って居る。私も此の班に来てから、色々の事を見せ付けられた。私達の先輩の或る馬が間違いで兵隊さんの足を踏んだ。所が其の兵隊が物すごい短気な兵隊であったからたまらない。忽ち烈火の如くおこって、ホウキを逆手に持って尻をピソピソなぐり付けた。
こんな事をされたら防衛上蹴るのも当たり前でありませう。そんな事も時々見受けられて、私も、牧場に居た時にくらべると少しは荒れ気味になって来た。あまり意地の悪い兵隊は、一蹴りしてやりたい様な気持ちさえ出て来た。しかし私の主人の木谷一等兵に限ってそんな事は更になかった。最近では、足音、歩き方に依って、あゝ木谷さんが来たと言う事を直感する様になった。木谷さんは、厩舎の入口に来ると、「友」と呼ぶのが通例になって居た。私は緩く顔を向け、二・三度ヒヒソといなないた。そして前がきをしながら、向かえた。馬房内に入って来て私の首にぶら下がったり、顔をなでたりするのが常で有った。私もそんな事をしてジャレて戴くのが何より楽しみだった。時にはパンや人参もこっそり物入れの中に入れて来て呉れる時も有った。私も木谷さんの来る度に、物入れに顔をこすり付けて、匂いをかんでみる様になって来た。我々馬に対してこれ以上の幸福が有るで有ろうか。私もこの人なら、戦場に行ってもいさぎ良く生死を共にするに充分だと思った。しかし私達も生物である以上、時には鉢の調子の悪い日も有った。しかし兵隊さんはすぐ見付け出して呉れる。それは、二月の或る寒い日だった。一週間も雨天が続いて、今日は又、雪さえまじる寒い日だった。私、急に腹部に痛みを感じて来た。私達馬の病気の多くは、腹痛で有る。兵隊は、此の腹いたの事を、仙痛と呼んで居る。私は昼間休んだ事はなかったが、今日はどうしても我慢出来なくなって午後三時頃だったが、つい構に寝て苦しさのあまり少しもがいた。全身汗ピッショリだった。白い作業衣を着た、馬屋番は片手に等を持って駆け付けるとアレッと言って篇の柄で二二二度私の尻をひっぱたいたが、私は起き上がる元気さえなかった。忽ち六、七人の兵隊が集まった。私はやうやく我慢して立ち上がった。でも苦しくて仕方なかった。私は五、六人の兵と一緒に獣医室につれて行かれた。そこには獣医将校が二・三名居た。私は兵隊の手に依って太い丸太で出来た四角の枠の中へ入れられた。
丁度鉢いっぱいだった。胸と尻の方には広いベルトが通って居て、すはるにももがくにも全然身動きは出来なかった。ほんとに立ったままだった。其の周りには班内の兵隊さんが沢山居て、腹をこすって呉れる人もあれば、ゴム管で出来て居る管で薬を入れて呉れる人も有った。仲でも木谷一等兵の心配そうな顔付きは、今尚心に残って居る。皆の懸命なる介抱に依って、私もいくらか気分も良く成って来た。腹には毛布が三枚巻かれて、広々とした新しい藁の敷かれた部屋に入院してしまった。夜通し一時間位の交代で私の側から、一人も離れなかった。木谷さんは寝ずに水を持って来て呉れたり、色々面倒を見て呉れた。明け方に成ってすっかり元の元気に戻った。
皆、嬉しそうだった。明くる日の昼頃、私は又元の班に戻って来た。何だか今までの事が、夢の様な感じがしてならない。相変わらず自分の班には賑やかで活気が有った。二月三月は夢の如く流れて四月の桜の侯と成った。兵隊も馬も若き希望に満ち満ちて居る。我吾は、此の若芽出る春が一番嬉しい。習志野の原は一面に、青草に覆はれて来た。我等は此の自然の訪れに依って、大いに頑張る事が出来得るのだ。今日も朝からカゲロウもえる気持ち良い天気だった。私は相変わらず木谷さんを背にして、演習に出た。今日は習志野の原を通過して、龍の不動に御参り努々、花見だった。兵隊は皆、嬉しそうだった。二時間位して目的地に着いた。私の鉢は気持ち良い一汗が、全身ににじんで居た。初年兵さんは、一人で四頭位ずつ手綱を握って、煙草をのみながら故里の事でも考えて居るらしい。二年兵、三年兵は、車座に成って、芝生に腰を下ろして面白そうに語って居る。そうかと思えば、「春は嬉や 大龍の花見 咲いた櫻に駒止めて駒が勇めば 花が散る。チョイト散らせて又咲かす」 こんな唄を唄いながら、楽しく一日も過ぎた。兵隊達は此の世の中で、一番苦しい思いも味わうだろう。又、誰も知らない楽しみも有るのだ。其の間、軍人精神は養われ、どんな困苦決定にも耐える事の出来得る様に成るのだ。
軍馬祭、軍旗祭と色々、軍隊の行事も進み、観兵式秋期演習、時して世は支部事変拡大し、私達にもついに、待望の動員が下った。兵も馬も皆、張り切って居る。○年○月○日、私達は多くの戦友と共に、戦地に向けて出発した。国家の為、大いに活躍する覚悟だ。
                       終
                 十六年九月十六日

宮下 秀雄 遺稿
 (宮下秀雄君の遺稿と思われます。大石良雄さん宛か)


 五分も十分も見とれて居た。二時出発文部隊に向かう。
無事午後八時到着荷物の積み込み何をする間もなし。帰って来て不寝番。十時半休む。
七月八日。本日も昨日の如く輸送の任務を果たす。
七月九日。本日で三日間三十里の道を往復す。体はくたくただ。でも、事故もなく三日間終わる。
七月十日。本日休み車両応急整備油だらけになって整備す。
七月十一日。本日車両及弾薬送納の為、東安に出張一泊の予定貨車十八両。午前三時起床、四時出発。道路は相
変わらず悪く、体は綿の如くつかれた。
ひっきりなしに走り夕刻目的地東安に到着。先ず弾薬を送納す。あまりの設備の良く出来て居るのには七月廿五日
夏だ相当の暑さが到来するものと覚悟して居たが思ったより凌ぎ良い習志野よりまだまだ涼しい気がする。いや涼しい所ではない。夜間は冷気さえ感ずる。寒いより暑い方が凌ぎ良い様な気がする。四月一日。以来毎日鍛工手として軍雇と共に自動車の修理作業だ。自分でも相当な腕に達した事を感ずる。毎日の仕事は面白さを感じつつ、有意義なる軍隊生活を送って居るこれが最大なる奉公だ。
七月廿六日日曜日
 我等に取って日曜が一番嬉しい何よりの楽しみだ。小隊員全員にて会食一ぱい早速正午より昼寝。一ぱい気分にてうつらうつらとす。夢の如く現の如し。戦友達のカゴの鳥や、国境の町の歌が流れて来る。
 自分では気がつかなくとも身体的に精神的に相当な修養と言うか人間としての価値が出来て来て居るのではなかろうか。それとも俺の心のうぬぼれか、とにかく苦労した事は実際だ。でもこれが人並みの事であって、男として踏まなければならない道なのだ。
八月五日。愈々明日より移動輸送開始される。午前中車両検査、午後荷物の積み込み。
八月六日。貨車二一六号。調子悪き為、本日車両整備八月七日。午前四時起床、五時出発。三十里の工程を目的地興凱に向ひ行軍す。道路悪し、午後一時到着。九ケ月振りに始めて汽車を見た。只呆然として。
八月十九日。今までで今日が一番暑さを感じた。日中は相当なものだ。眼の前がチラチラする感じだ。
ブヨ何とブヨの多い事よ。夕方より明朝入時頃まではうっかり外へは出られない有様だ。戦斗帽のアナの中から頭に入り、はては背中まで入る。手でおう。おって居るその手に幾らでもつく。実に閉口する。二十米連続歩く事は出来ない。途中でしゃがんで足をカカなければどうにも仕様ない。点呼が一番つらい。点呼が終われば足はプクプクだ。でも家の中は暑いし、外へ出ればブヨ、冬は零下四十度。夏は暑い上に斯の如くブヨ。こんな真夏の暑さでも、一度夜中になるや寒さを感ずる。でもこれが人生の修養であり、又御国の為なのだ。何如なる苦しみでもやって来い。我に力あり。
八月二十二日。本日戦車神社祭典。又七五五戦車隊創立記念とを以て、朝早くより大々的祝典を挙行をす。天気良好なり。十日前より演奏会の練習各中隊共ものすごき張り切り方だった。午前中競技会午後兵隊の演奏と賓清より招待せし、日本ピー朝鮮ピー八十名合同にて盛大に行はれた。ものすごき振るまいなり。渡満以来八ケ月、今日始めて女郎では有るけれども日本婦人の姿をありありと目の前に拝する事が出来た。なんとも言えない気持ちだった。第一線では女郎でもいざ斯の如き合の場合は国防婦人愛国婦人のタスキ掛けだ。宝清全部のピー八十名。将校の頭数にもとってつかない。何れも三十近い女であろうがお高く止まって、てんで兵隊なんか相手にしない。内地に行ったら女はあまって居ると言うのに又何と言う事だろう。あまり良い女でもなささうなのに。でも良くこんな異国の山の中に来たものだと感心する。其の点やはり戦争に女はつきものである。男と女は何所へ行ってもはなれる事の出来ないものである事を感ずる。
八月二十四日。今日は又何と寒き事よ。内地は今頃は真夏の一番暑い時分と思うのに、シャツ一枚上着一枚着たのでは寒さを感ずる。其の上に作業衣を着る始末。なんと閉口するのではないか。調度晩秋の様な気持ちだ。これが八月二十四日真夏の時候とは!!
八月廿五日。近日中七五五部隊解散移動ある様子。本日より兵隊全部に封しお便りの差し出しを禁止せらる本日旧暦七月十五日。御盆なり昨日に比べると今日は日中は相当暑い。夕食後より部隊前の小高き丘に立ち雲なく晴れた大陸の満月を拝しつつ、故郷の事を偲びつつ。旧お盆を思い出す。それで三ケ年間御盆もせずにしまった。
来年こそ楽しきお盆を故郷で味わいたいと今から期待して居る次第だ。本日移動の為の荷造り作業開始せらる。
八月二十九日。朝五時半起床夜は九時三十分只夜がみじかくねむいねむい。入時より午後五時半まで工場にて作業。午前中十五分午後十五分休むのみ。体のつかれるのは当たり前だ。朝のねむさは又格別だ。でも起床ラッパはどうにもならない。嫌が上にも起き上がるのだ。
それのみでは何でもないが其の上、衛兵勤務車廠当番工場当番不寝番中隊当番とあらゆる勤務が待って居る。長くて三日寝ると勤務出張とか演習で人員が少なくなると殆ど一日置きだ。良くも身体が斯くの如く続くものだと自分自ら体の強さに感心する。やはり体はつかわなくては駄目だ。それで体は益々強健になるから不思議だ。此の調子で軍隊に居る気持ちになって家へ帰って働いたら忽ち大成金になれる。うんと働いたからと思って居るが帰ると又其の時其の時の風が吹くからどうかと思うが、とにかく其の気持ちが持てる様になって来たのも軍隊の御蔭だ。其の事を思うと、長い人生の三ケ年間位なんでもない。家にいた所で別になす所なく三ケ年位は過ぎて驚いた。流石北満東安省の首都だけあって相当なものだ。
町の大半目抜きの所はほとんど日本人だ。なんだか内地の都会へでも帰った様な気持ちだった。そして日本の力のあまりにも偉大なるも痛感する。この町には始めて見るキレイな日本婦人も居れば、又一流のクーニャンも目にとまる。これが東安の始めてであり又最後である。俺の人生に二度と北満東安の土を踏む事は出来ない事だろう。
九月十二日。午前中車両送納十二時東安出発。宝清向かう全員相当なつかれを見せる。本日ものすごき車両事故起こす。貨車二一五号ダソガイツイ落、滅茶苦茶目の当たりに斯の如き事故を見せ付けられるとなんとなく自動車がおそろしくなって来た。でも俺等の車は無事。午後九時、宝清到着。長い間のつかれを休めんとすれば又今夜は不寝番。本日より急激に温度下がる。夜は相当な寒さを感ずる。内地の初冬の感がする。
九月十三日。出発隊本日二時三十分起床出発。修理小隊で後発。藤原軍曹と俺と二人のみ。今日は一日ゆっくり休養愈々明日は出発だ。
九月拾四日。愈々本日目的地に向かい出発すべく午前二時半起床。四時三十分秋風のうす寒く吹く中を貨車はコウリヤン畠と大平原の間をば興凱に向かい前進す。十時半興凱に到着。戦車荷物の積み込みをなす。四時二十分興凱出発。九ケ月振りに懐かしき汽車に乗った。でも貨物車とは情けない。一つの貨車に三十名只座ったまま、足さえ満足に延ばす事すら出来ない。一番弱ったのは便所のない事だ。四時に小便したきり、明くる日の入時まで我慢し通した。自分自ら感心した。寒くて昨夜は一睡も出来ず。
九月十五日。尻はいたくなるし毎日汽車。弁当一人の男が汽車べん一つではどうにも腹がすいてたまらない。誰も同じ事だ。でも誰一人不服を言うものとてない。やはり皇軍将士だ。午後六時目的地スイヨウに基地到着。うす暗いホームで戦車荷物を下ろす。相当発達した国境の町なり。九時三十分。戦車隊に入る。今までの部隊と別に変わる所なし。只中隊が多いのみ。大半は一二三四に、転属せらるも幸い小生は今まで通りの中隊なり。

ここは御国を百里
離れて遠い北満の国境
警備の任につく
任務は重し戦車兵
酷寒零下の其の中に
草木も枯れる炎熱に
御国に毒す真心は
何かおそれん
祖国の護り
赤い夕日の丘に立ち
銃を片手に警備する
父母よ妻子よ達者で居るか
男に召されて来たからは
覚悟は堅し此の鉢
故郷に桜の花の咲く頃は
過ぎし昔を思い出す
ああ青春の夢よいづこ
呼べど帰らぬ思い出を
胸にうかべて月下の歩哨

九月十二日。本日東北四蘇代表皇軍慰問団当隊に来る。
午後一時開始せらる。久方振りに水もしたたる様な純日本婦人。秋田美人の演奏を見る。急に内地を思い出し色々の事を連想して楽しく一日を終わる。これが前線将兵の最大なる楽しみだ。兵隊ならでは味をう事の出来ない楽しみだ。
九月十五日。「寝言」何故最近になって毎夜々々斯の如く寝言を言うのか。自分でも感心する。相当自分でも気を付けて居る心境で居るが駄目だ。考える事が多いのかそれとも心が動揺して居るのか。たしかに精神的に幾らか変化を来して来た事は事実だ。昨夜も不寝番に起こされた。あまりつまらない事を言ひ出さなければ良いと自分自ら心配して居る次第だ。
 前略色々と御世話になりました。厚く御礼申し上げます。愈々大任を帯びて、来る二十九日出発致します。時局の先端を行く00部隊、南へ。今後便り出来ず、御無沙汰のみ重ねる事と思いますが、何分留守中頼みます。
○○に敵前上陸の予定。海上操行部隊として。面会出来ず。来甲無用元気旺盛皆様に宜敷く。取り急ぎ乱筆にてさらば
  九月二十七日
       兄上様
                     秀雄より

昭和十九年十二月二十三日
九時すぎフィリピン・ルソン島リンガエン湾の北サンフエルナンド港上陸を前に乾瑞丸・米潜水艦魚雷3発半数の一、二〇〇人死 
陣中日誌

昭和十七年キング五月号口絵
国境方面にて一週間に於ける間、行われた冬期大演習。
零下○○度の寒気を征服しつつ進撃する我が鉄牛部隊の進撃。北遽の護は堅し。
   (満州第七七五部隊戦車隊の勇姿)

西部北満に於ける歩兵部隊の活躍。零下○○度正に銃も剣も氷る寒さの中。国防の第一線に立って、活躍。警備の任務を全うする皇軍歩兵部隊の勇姿。

六月二十日
昼間は物すごき暑さにて相当の苦痛さえ感ずる。然るに夜の十時以後、朝六時頃までは急撃に寒気加はる大陸特有の気候と言うのであろう。其の気候になれるまでは、仲々一苦労だ。真夏の七月でも夜間勤務者は外套着用なり。
夏の日曜の正午兵営の一偶よぅ流れるアコーデオンの音。さて名曲の主は、毎日の演習に勤務に精進した。つかれ
をば兵隊達は日曜に依って、回復するのだ。そして自分達の手で間に合う程度の演奏会もやり、アコーデオン、ハーモニカなどに依り一日の日曜を楽しく送り、明日への原動力を養うのだ。第一線の将兵にはこれ以外には何の楽しみもないのだ。
六月二十一日。ああ財産欠乏す。一ケ月の予算を立てて残ったのは、月の始めに全部貯金してしまった。普通なら、間に合ったのであろうが、何だかかんだか色々の付き合いで懐中僅か二円七十銭、これで後十日間持たせるのだ。別に外出して悪銭を使った訳でもないが、金のないのは何となく心さみしい。畢隊に来て始めての心細さでも良い経験になる。どうやら俺一人でもなさそうだ。
地方では一人前の男が二円や三円ばかりでは恥ずかしくて仕方ないが、軍隊はこの位の事は一向に平気だ。人並みの事だ。内地なら一寸一筆の元に、早速送金して頂く事も出来得るが、此所はそうは行かない。却って思う様にならぬ所がさっぱりして良いかも知れない。

ゴウゴウと大地を壓すエンヂンの音。行けど行けど皆荒野原。
今日も露営か大陸に、西も東もはてしなし油と汗にまみれつつ、見よ戦車の前進を。昼のつかれを幕舎の中で防蚊覆で顔を覆い大きな手袋手に着けて、露営の夢はさて何如に。
六月二十七日

御国に捧げた此の体、覚悟は堅し戦車兵聖戦寓里海をこえさく風すさぶ大陸に我がせいえいの行く所。常に先方戦車あり。敵火雨中物かわと騎兵の進路聞きつつ、敵陣深くじうりんす。勇ましきかな戦車兵。

あの山この谷、勇ましく血潮を流した兄弟よいまこそ微笑み聴いて呉れ我等が勝関建設の唄輝け荒野の黄金雲。
夜明けだ夜明けだ大陸に、見よ皇軍の大通行。大東亜の建設よ。光は輝く大陸に(北満国境の町の一風景)

零下四十度の中、見よ。
戦車整備兵を、組立兵か鍛工兵か。重い防寒具身につけて、守りは堅し北満の、任務は重く園の為、苦労を共にする我が戦車
我が大君に召れたる日本男子の歩武を見よ。
何如なる苦労も何のその。我等は皇軍戦車兵。
      (小休止の折の戦車点検)

虞望千里国境の空。今ぞ世紀の朝ぼらけ興亜の使命隻肩に、誓いて立てり、雪の歩哨。
見よ、前方にはロシアの町のネオソが光々として居る。モクモクとして警備する。守りは堅し生命線。南方で大々的な戦火の場の蔭にはものすごき寒さの中、北過の守りの堅かればこそ。

激しい北風を受けて手も足もしびれてしまいそうだ。何処を見てもただ地平の一線が白く空と合しているだけだ。雪の虞漠地帯で有る。
戦車は白く偽装されて居る。零下三十度の中。
ものすごい北風を受けて整備する戦車兵。
何如なる困難も打勝つ必勝の信念を平時より養って居るのだ。大東亜戦争の輝く戦果は決して偶然ではない一斯の如く北邁の護りが盤石なればこそだ。

七月十二日。召集解除只待つはそれのみ。別の軍隊が苦しいのでもなければ、いやになったのでもない。只無我夢中で故郷が恋しくなるのだ。二年六ケ月。一部には九月当たり満期するとのうわささえ出る。あまり遠くもない事であろう。長くも半年だ。今少しの心棒だ。自分の心をなぐさめるのみ。
七月二十日。夏の日の夕暮れ高き丘に立ちて、暮れ行く真夏の太陽を眺めつつ、色々の事が連想す。遠か故郷の方向に向かい思い出を呼び起こす。過去の軍隊生活を、家庭を、そして今自分は大陸に来て居る事をしみじみと夢でなく、実際である事を思う。なんだかすぐその山の陰が内地の様な気がする。何百里と離れた大陸とは全く思はれない。

砲兵の援護射撃の下
見よ陣頭に立って敵陣深く揉踊す戦車の進撃を我に向かう敵はなし。頭寒零下の中、草木も枯れる炎熱の下、何如なる苦労も、のりこえて、陸の王者戦車陣はモクモクとして轟忠報国の誠を尽す。
昭和十七年七月廿日
○○方面に活躍する我が戦車部隊

七月廿日
愈、明日は○○方面出発だ。
戦車整備兵、補給小隊の出発
準備の為、燃料、食料を積載。明日の戦闘に寓事、落度なく準備するのだ。物すごき戦車の攻撃の蔭には、汗と油にまみれつつ、日夜活躍する補給小隊、修理小隊があればこそ。其の目的を達成し得る事が出来るのだ。
出発前の補給小隊のドラム缶の積載作業。
何如なる障碍も何の其の我に向かう敵はなし。我等鉄牛部隊のものすごき訓練を、斯の如き訓練があればこそ一朝有事の際、一歩も敵にゆずることなく電撃作戦も成功するのだ。
夜も日も分からぬ戦車の猛訓練。

昭和十七年九月十六日
昨夜十二時就寝。今朝六時起床。起床ラッパまで何も知らずぐっすり休む。急に寒さを感ずる時候となり、今朝は一面の初霜さえ見る有様なり。これが九月中旬の気候かと驚く。未だ落ち着かず土地気候に馴れない為だろう。
本日綬陽駅にひとり荷物の運搬に任ず。
九月十七日。前日通りの作業を続け、昼休みに綴陽の町を見物す。相当賑やかな国境の町なり、町の大部分はほとんど日本人なり。久方振りに内地に帰った様な気がする。午後三時。仕専を終わり帰宅す。
九月十八日。本日より冬衣袴着用なり。
九月二十日。
本日第八師団長の訓示あり。騎兵第三旅団より第八師団に午後二時新活部隊長の訓示行ほる。
本日を以て、今月一日より行はれた所の新機甲団編成完結す。
十月五日。ああ又寒風すさぶ冬が来るのか。今が一番気候は良い。本日外出が許可され、戦友揃って絞陽の町を見物す。さながら兵隊の祭りの如く、何処へ行っても町中兵隊がおしあるいて居る。別に見るものとてない。只軍人酒場で食事でもして、一ぱいやるのが一番の楽しみだろう。町の大半はピーヤだ。ほとんど朝鮮ピーだ。何処のピーヤを見ても満員だ。早朝からこの始末だ。こんな所は一寸銃後の人達には見せたくない。仕方なし友達と映画見物で一日を送った。夕方気持ち良く部隊に帰る。
本日の小遣い一三円七十七銭。赤い夕日を浴びて一里の道を帰営す。気持ち良き秋の夕日を背に思はず、合唱する歌は「赤い夕日の他国の空で偲ぶ思いは皆同じ。泣いちゃいけないえがおを見せて。強く生きるのよ いつまでも」
晩秋の大陸に聾は流れ遠き山々にこだまして軍靴のひびきもみだれみだれに大陸の我が家に帰り行く。ああこの気持ちこそ幼き日カバンを肩に学校帰りの楽しき昔を思ひ出す。
十月七日。毎日毎日工場出場。六キロハンマーを振りつつかなしく暮す。これが最大なる御奉公か。御蔭で鉢は良くなるし、最近では相当な腕に達した事を自覚する様になった。何を覚えても損はない。家に帰ったらおおいに腕を振って皆を驚かしてやろうと今から期待して居る。
十月十六日。靖国神社。臨時大祭午前十時より営庭に於いて遙拝式挙行す午後新京より慰問団来る。今までに一番おもしろく何もかも忘れて、午後五時まで楽しむ。何に付け彼につけ最近は急に故郷を思い出す様になった。
十月十七日。本日神嘗祭にて朝から休養一日中面白く量らす。寒さ日に増し加わって来るのみ。
十月十八日。本日日曜朝から休養。毎日毎日心が動揺するのみ。殊に最近に於いてはげしくなって来た。やれ召集解除。やれ移動と頭の中は、くしやくしやだ。只一日も早く後一ケ月ばかり経過して暮れると、良いかと思うのみ。来月一ケ月末には何とか目星がつくのではなかろうかと今から楽しみに待って居る。でも幸い健康にめぐまれて元気益々旺盛喜ばしき事なり。
十月十九日。一日一日と寒さがつのるばかり。今日当たりは日中でも相当な寒さを感ずる様になって来た。工場にて銃を手にするのも何だか思いなやむ様になって来た。今朝は工場の裏一面に氷が張りつめた。調度、内地静岡嘗りの真冬位の気候ではあるまいか。
十月二十一日。昨日よりペーチカ使用許可されると共に、防寒福神袴下着用を許可さる。未だ暦の上では秋なるに満州では最早本格的の冬の到来なり。本日夕六時より夜間演習。調度内地の真冬位ひの寒さの満月を浴びて、陣中勤務の下十度枯れ草の上に伏して実施。内地で挑むればさぞ晴れ渡った秋の満月で其の眺めも一殊独特な眺めてあらうがこうして異国のはての国境の荒れ野で演習をやりながら故郷の事を考へ眺める月も又何とも言へない。
大東亜戦争下北満警備思い出の月だ。
十月二十二日。本日の寒さは又格別だ。手や足が痛い。
いやでもおうでも又冬だ。日中でも相当な寒さを感ずる内地の真冬以上だ。夜七時入浴帰りに早五十米も歩かない中に、手拭いは棒の如く氷るこの寒さの中で元気一ぱいに帰り切った。兵隊達の軍歌演習の聾が丘を越えて北風に送られてかすかに流れて来る。斯の如く寒さもおし切って、猛訓練を続け北遽の守をかためるのだ。斯く有ってこそ大東亜戦争も大勝利を挙げる事が出来得るのだ。
北遽は大丈夫だ。
十月二十四日。手も足も切れてしまいさうだ。緩陽の町を流れるスエズ運河もすっかり氷結してしまった。兵営の各煙窓からはペーチカの煙が真っ黒になって空を覆って居る。斯く如く寒さと戦ひつつ黙々として北遽の護りは続けられて行くのだ。十月でこの寒さだもの来るべき一月二月の寒さが思ひやられる。
十月廿七日。戦友斉藤源治郎君にはどうにも弱った。中隊で一番の大イビキかきだ。床の中に横になると始まる。
どうにもうるさくてねむられない。相手初年兵昼間うんと働くから、大得意になって鼻をならしたら寝てしまう。
こっちは中々眠り付けない。俺も初年兵の時は、寝るとねむるとどっちが早いかと言う位ひだったが、最近は駄目だ。今夜も十一時半までねむる事が出来ない。あまり考へる為か、それとも運動不足か、何にしても戦友がうらやましい。
十月廿八日。本日も部隊衛兵早朝からものすごき風。手も足も動かない防寒具は渡らないし、防寒補祥袴下のみ。
夕刻前後より凰は止む。夜九時遠か国境の彼方から真っ赤な月が揚がる。一時二時御国の為であればとて、こんな異国の山の仲で寒風に吹かれたら、夜通し警成せようとは、つめたい枯れ草をふみ出たら色々の事を連想す。
足もとからねずみが飛び出してもハッとして銃を握りなほす。シーンとした真夜中、遠い彼方の山からかすかに、オオカミのうなりさえきこえて来る。国境より僅か○里。
其の任務は重大だ。三時四時益々寒気がしみる。今朝五時最低気温零下二十度。これが十月の気候とは、十月三十一日。本日より異動の為のコソボウ開始られる。
多忙なり。
十一月一日。本日日曜なれど、平日常通り服務前日通りの仕事が続く。朝から一日中綿の如き雪が降り続く風はなく至って静かだ、こう静かな雪はあまり寒さを感じない。故郷では秋の山仕事も終わらない事であらうがペーチカに寄り掛かって大陸の雪を眺め乍らさまざまな事を連想内地の正月思ひ出される。
我々の待望の満期もあまり遠くなく実現されそうだ。年末かそれとも来年か。とに角来る日も来る日もペーチカを囲んで満期話に花を咲かせて居る。いやデマではない。火のない所から煙は出ないとか確かに間近にせまった事は確実だ。先ず身体を大切に事故なく今二・三ケ月過ぎて呉れる様神に祈って居る。
十一月三日。良い気持ちで内地の夢路をたどって居ると、突如非常呼集冬の三時一番良く寝られる時だ。でも仕方ない。電灯をつけるな。早くやれ。何と大あわて。十分後に全員営庭に集合。何にしても寒い週番司官の状況を達するの聾もさみしく敵は00方面にあり我がセ隊は戦車隊主力の○○方面進出を容易ならしむる為、先迅隊として○○高地の敵状模策の任務を以て只今より○○高地に向ひ前進す。第一第二小隊より前へ二・三日前に降った雪は未だ消え去らず其のままだ。幾日の月か知らないが今揚がったばかりだ。雪の表面は硬く氷ってピカピカ光って居る。いくら力を入れて歩いても雪の中へ足が飛込む様な心配はない。それ所ではない。そっちでもこっちでも銃を肩にしたまま、すてんすてんころんで居る。
月あかりに照らされてキュキュと雪をふみながら、進歩行軍何でも雪中行軍は歩きにくくてつかれる。丁度夜明け方00高地到着状況止め。全員丘の上に立ちて遥か皇居に向ひ明治節を祝して捧げ銃戦勝祈願武運長久にていつまでも御奉公を続ける事を祈る。十分間休憩後又兵営に向かい前進を開始す。すっかり夜は明けた。帰りは行軍歌だ。戦車隊の唄。愛馬進軍歌も勇ましく暁の大陸図境の空にこだまして行く。はく息も真っ白だ。斯くありてこそどんな固苦にも打ち勝つ事が出来得るのだ。ああ意味有る昭和十七年の明治節よ。
十一月七日。本日第八師団長の巡視並に訓示行はる全員九時営庭集合物すごき北風を受けて一時間行はる。手も足も取れてしまひそうだ。自分の鉢の様な気がしない。
別に仕事の上に置いてはこれと言って苦痛は感じないが、寒い程つらいものはない。愈々午後より輸送開始せられる寒さはつのるばかり。
十一月八日。愈々明日は出発だ。本日より本格的に自動車クリ一等に依り、早朝より行ける。連日寒い風の中で、活躍す。本日はクリー監視でも営地より緩陽駅の間を往復す。手や足は少しの間も暖まった事はない。朝から生がない。午後七時。仕事を終わり明日出発の準備をなす。
十一月九日。(ハアハア又、雪空夜風の寒さ)朝四時起床五時出発。どんよりと曇った寒き朝なり。星明かりに照らされて、屯営出発。緩陽駅に同じ乗車行軍。午前中掛かって荷物車輌の搭横終わる色々注意が有った上午後三時半目的地牡丹江に向ひ列車は発車す。一つの貨車の中に五十名。乗車足を延ばす事すら出来ない。寒さは寒し火の気とては更になし。黙々として列車は進む。左隣りに現役の三年兵の兵長さんが居て、右隣りには召集三回目だと言ふ三十四五にもならうと思う古参一等兵が座って居る。故郷の話に花を咲かせたら、暗いランプの下でヒゲづらが笑って居る。寒くてねむる事さえ出来ない夜中の一時三十分。目的地牡丹江に到着。全員協力の下朝六時までに却下を終わる。昨日は中食夕食共朝、部隊から持って来た飯金のひやめし鉢のひえるのは当たり前の事だ。何ともまあ色々の思ひをする事は、自分自ら感心する。
十一月十日。眼下に北満随一の都市牡丹江の町を見下ろしたら、おちつくべき新部隊に向ひ乗車行軍九時目的地部隊に到着す。相当大きな今までの部隊より余程勝って居る。久方振りに暖かい朝食にありつき、やれつかれを休めんとすれば、本日は停車場衛兵との事。ペチャンさっそく又自動車で駅に至り荷物の監視に任ず。でも今日は幸ひ今までになく暖かい。朝から異国の列車を眺めつつ立喝す。部隊の全員は駅と屯営間の荷物の輸送其の間、八キロ夕方まで掛かるも荷物は半分位残る。愈々夜も又寝ずの番だ。駅前に畷営兵所をこしらへかんかん火を起こして夜を明かす。銃を片手にホームの上をこつこつと歩きながら警戒す。今夜で三晩寝られないのも今少しだ。
愈々最後の御奉公と思えばなんでもない。
十一月十一日。九時三十分。営兵交代。自動車にて部隊に引き揚げ兵器手入れ身の廻りを片付けて十二時より夕方五時まで就寝休養何も知らずに休む。夕方暖かいまんまにありつき、入浴にて久方振りのアカを流す。やうやく自分の体にもどった様な気がする。少し落ち着くと又満期話かテンホ。
十一月十二日。昨日に引き続き本日も晴天にて風もなく暖かい。入時起床。飛行機の爆音にて限を覚ます。お隣の飛行部隊で毎日昼夜をいとはぬ猛訓練だ。一晩中ぐっすり休むと連日のつかれは一時に去る。やはり若き時の力でなくては駄目だ。九時参十分。清田見習士官引率の下に戦場掃除の目的を以てカイロ駅に整理に行く。十一時仕事を終わり牡丹江の町を見物に行く。流石北満第一の都会だけあって、相当なものだ。静岡なんか問題ではない。日本人満人鮮人ロシア人、あらゆる毛色の変わった人種が住んで居る。四方山にいだかれて見渡す限りの平野の中にある都会だ。こんな風光を見るのも軍人なればこそだ。四十キロの速度で帰営午後部品庫の使役七時点呼。七時三十分消灯。ペーチカの側で上着をぬいで寝室にあぐらをかいて、補充兵揃って又満期話この上もなく、たるんで居る。全く軍隊の神様だ。家へ帰ってもこんな生活を続けて見たい。横のものも縦にもしない。軍隊は苦しい時は此の世の生き地獄。又のんびりとして居る時等一寸誰にも想像がつかない。全く色々の思いをして見る。何にしても愈々待望の満期も目前に迫って来た事は事実だ。
十一月十三日。朝五時起床。冬の五時では未だ陪い。又今朝の暖かい事よ。なまぬるい風が吹いてむしろ気持ちが悪い。起床と同時に大陸の澄み切った空気を吸う傍ら、動車にて海路駅に後発者の荷物の運搬に行く陽気が暖かい為か知らないが、今までの宝清や緩陽に比べると全く凌ぎ良い。防寒衣服もこれではなげだしたくなってしまう。やはり北満とは言へ大都会の発展する様な場所は何か良い所があるに違いない。夜の一時良い気持ちで寝て居ると、東京出身の高橋幸太郎が、おいおいと言っておこす。見ると食缶に一ぱい炊事からシルコを持って来て居て、食えと言うのだ。皆静かにねむって居る。関東の三年兵ばかり五・六人夜中におき上がって思う存分戴く。どうにも始末がつかなく、はては飯金の中に入れて明日の御楽しみに、皆ねて居るのに福神袴下のままペーチカに寄り掛かって又一プク満期話か。お陰で腹が張って、仲々ねむり付く事が出来ず始末に困る。アーア。
十一月十四日。夜九時消灯(朝七時起床。何と丸々寝ると十時間ねむれる。初年兵当時は夜中に目を覚ます様な事は全くなかったが、最近では夜中に二回ずつも便所に行く。あまりたるんで居る為だろう。
十一月十五日。本日日曜日。待望の外出が許可され、戦友小塩音二郎君と二人で北満大都市牡丹江市に外出す。
相当な寒さだ。町の銀座通りに先ず落ち着く。三里の道を歩いて来て、十一時到着。でも丁度東京に来た様な気分だ。さて映画か、一ぱいのむか。まさかピーヤへ行く様な度胸はなし。とにかく喫茶で一ぱいやる事に決まった。ビールか酒かウイスキーか何でもある。酒一本七十銭。ビール七十銭。幾らでも買う。三年兵四人で有り金全部はたいてしまった。何と江戸っ子は気前が良い事よ。
長い間移動とか何かで忙しくて外出しない為、相当金もあったが一人残らず全部スッカラカンだ。まあ、最後の外出かもしれない。仕様がない。さて、明日から煙草を買う金さえない始末。まあ何とかなる。俺一人ではない。
いっこうに平気だ。まあいい思い出さ。唯、待つは一日も早く何か良い命令でも出れば良いとそれのみ。
十一月十八日。愈々待望の○○が大体見当がつく。夕刻より中隊長人事係本部集合。十一月末かそれとも十二月始めか確定した事は事実だ。ペーチカを囲んで全員大喜び。夜寝ても仲々寝付く事が出来ない。途中道中の事から故郷の事から次から次と連想して、限は益々さえるばかり。どうやら俺一人でもなささうだ。とうとう十一時まで十二時より不寝晩。ほとんどねむらずだ。
十一月十九日。朝食が終わるとすぐ人事係が、三年兵集合。早速行って見ると、御前達は長い間御苦労だった。
愈々近い内に内地へかえるから体を大切に、身の回りを整理する様に、又職業の方面も心配して呉れるとの事。
大喜び、やはり来るべき時が来たのだ。余す所一ヶ月とはない。此の世の春だ。
十一月二十日。満期話益々持ち上がり、夜は満期予行。
十二月七日。何事もなく平々凡々として十五日間夢の如く過ぎ、満期話後も熱がさめて来た。やはり来年か。軍隊生活も無事三ヶ年過ぎんとして居る。戦友達とも多数つき合って見た。「事故」昔の人が良く言った。「事故」の主なるものは大体酒と女だ。今日も中隊の或る兵が酒の為、ふとした事から重営倉七日を食った。軍隊は一寸した事から罰になる。地方人には想像がつかない。良い見せしめとなる。益々緊張して無事任務を果さん事を祈って居る。
十二月八日。今日ぞ大東亜戦争一周年記念日だ。各部隊とも非常呼集だ。燐の飛行隊等夜通し此の寒さに猛訓練を続けて居る。大東亜戦争の大勝利の裏には漸く如き寒さの中、夜も日も分かたぬ苦労を重ねて居るのだ。思えば昨年の今頃は習志野に於て動員を受けものすごく張り切って居たのを思ひ出す。それがつい昨日の様な気がする。光陰矢の如しとは良く言ったものだ。午前九時半より下士に於いて詔書奉読式挙行され、部隊長の訓示あり時局の益々重大なるを感ずる。
十二月十日。夜間演習午後五時半。営庭集合。零下二十五度の極寒の中、陣中勤務。手も足も取れてしまいさうだ。折からの月に照らされ、真っ白な息が見えるばかりだ。防寒服のフチは真っ白に氷ってしまった。眼下に大牡丹江市を見下しつつ、行はる。銃も剣も真っ白に氷って歌の如く氷の花だ。でも我々が苦労するばかりではない。隣の飛行隊はどうだ。此の真夜中の零下の寒さの中で上になり下になり物すごき戦斗訓練が続けられて居るではないか。タン照燈は十教本で其の飛行機を照らし出して居る。さながら実戦其のものだ。斯くして北邁の護りは益々固められて行くのだ。
十二月十三日。本日外出が許可され、戦友小塩君と牡丹江に遊びに行く。興隆から牡丹江の町まで一時間半でも外出となると仲々勢いが良い。各デパート契茶店等ひやかして一日中楽しく遊び、午後五時部隊に帰る。これが最後の外出となるか?。後待つは○○○。
十二月十四日。なんと興隆の水の悪いのは閉口する。うっかり生水の一口も呑んだ事なら大変だ。忽ちオケストーだ。生水でうがひする事すら禁じられて居る。それにやれ断水とか、やれ氷結とかで顔さえ満足に洗う事は出来ず、最近では入浴以外ほんとに五日に一度位洗う位のものだ。
夜の十一時。どうしても寝付く事が出来ない。あせればあせる程尚更の事だ。次から次と色々の事が連想され、限は益々さえるばかり。誰か夜中にペーチカの前で福神袴下のまま一服やって居る。誰かと思って叫んで見ると、戦友の小塩君だ。宮下お前まだねむらないのか。俺もどうしてもねむり付く事が出来ないから、今起きて一服やって居る所だと言う。ヂャア俺も一服と又起き上がって二人して思う存分話をする。十二時頃やうやく就寝。さあ明け方ねむくってたまらない。しみじみと起床ラッパがうらめしい。
十二月二十二日。本日営兵勤務。機甲軍指令。吉田眞中将当隊巡視あるとの事。表門歩哨として服務其の任務重大。寒さ激し、防寒帽のタレを上げる防寒手袋着用せず、零下二十度の中に立晴眼前を通過挙手答礼第一装の捧げ銃。只一言御苦労。でもこれ以上の名挙あらんや。流石名に聴える名将五十近き年頃なれど防寒服装もりりしく五尺八寸もあらうと思はれる。人格者だ。手も耳も寒さの為、感覚さえ無い。左手の人差し指は、軽度の凍傷に掛かった。夜間は益々寒さに寒さが加わり一回立僻すると防寒帽のフチは真っ白に吐く息に依って氷ってしまう。
それ所ではない。鼻の穴の中まで氷ってくすぐったくて仕方ない。限の捷毛から眉毛まで氷る。眼鏡等勿論駄目だ。ストーブにあたっても顔ばかりあたたまって、足の方からいくらでも冷えて来る。幸ひなるかな、どんな寒さにも打ち勝つ所の出来得る身体を持ったなればこそ。
十二月三十一日。今月二十三日より行われた前期検閲も無事昨日を以て終わり、午前中兵器手入内ム班車廠等の清掃等をなし。午後休務。ああ愈々年の暮なり。思えば昨年の今日は勇躍征途に上り、朝鮮にて車内の年の暮れをやった事を思い出す。過ぎて見れば一年位は長い様な短いものだ。でもあまりにも変化のあった年よ。無事今年も終わりをつげんとす。輝かしき人生の一貫は飾られて。昭和十七年を無事御奉公出来た事を祝福して、戦友揃って牡丹江の地光隆よ兵舎にて、戦友揃って乾杯、ああ誠に意義深き昭和十七年。
大東亜戦下の年の暮れよ。
昭和十八年
紀元二千六百三年一月一日。本年も軍隊にて目出度き元旦を迎う。昨年の元旦は汽車の中、今年は北満大都市牡丹江で渡満以来丸一年。午前三時半起床。車廠当番に七時半まで服す。皇居及故郷に向かい造拝す。四十度の寒さの中、各中隊共非常呼集隣の飛行隊では夜も寝ずに猛訓練だ。見よ昭和十八年元旦を迎えるに嘗ってこの活躍を。七時半勤務を終る。午前九時半。全員営庭集合遠か皇居に向かい捧げ銃。元旦にのぞみ部隊長の訓示。折からの寒風に聾は流れて、益々重大なる年を迎えた事を論ずと共に、戦車部隊としての本分を如何なく発揮せん事を望む。大半は外出するも、小生は営庭にて故郷の正月を偲びつつペーチカを囲んで暮す層は一ぱい祝酒全員面白く元旦を送る。内地の正月なら十二時まで位は遊んで居る所で有るが流石軍隊だ。夜の九時三十分消灯。誰一人口を開く人とてない。そして楽しき夢路をたどって居るので有る。ああ昭和十八年の初夢はさて何如。
一月五日。軍隊でもやはり正月三日間は朝は雑煮だ。軍隊に来て三回目の正月始めてしみじみと軍隊の正月を味わう事が出来た。五日間連続休養。あまり休むと身体はだるくなるし、腹の調子は悪くなるし、夜は良くねむれないし駄目だ。やはり我々は麦飯を食ってうんとしぼられなければ駄目だ。愈、最後の御奉公をする年だ。ああ喜ばしき新年よ。
一月六日。愈々本日より又演習だ。正月気分を一掃して、本日は朝から車輌整備、午後五時より夜間演習無燈火行
進不整地行進、零下四十度。一寸先も見えない。北満大陸氷のコウリャン畑やら道もない所を自動車行軍手や足はつめたいし、前のガラスからジーッとヤミの中をすかして、行進。何の雑音もなく只エンヂンのひびきがやみの中にきこえるのみ。辛が落ちる兵隊が物も言はず黒山の様にたかっておし揚げる。口をきくガスが高い何と教官のうるさい事よ。斯の如き苦しき訓練を続けてこそ一朝有事の際、電撃作戦も成功するのだ。無事地夜の○○時部隊到着。久方振りにぐっすりと良くねむれた。
一月七日。午前中車輌整備。午後修理車に戻り屋外修理所開設の訓練。四時より愈々寒ゲイコ銃叙術挑んだ零下四十度の中シャリ二枚で猛烈ににやる。いやでも気合を掛けてやらなければ身体中氷ってしまう。ほんとうにこれが寒ゲイコと言うのだらう。一寸内地軍隊の寒ゲイコの銃剣術は、くらべにならない。体中汗びっしょりになるまで、やられる。でも終わった後の気持ちの良い事よ。
今更ながら自分の身体の健全なるに驚く。
一月八日。朝四時気持ち良く夢路をたどって居ると、突然非常呼集。いやでもおうでも起き上がらなくてはならない。五分後全員武装を備え、営庭集合物すごき寒さなり。牡丹江に同じ前進す。まだ四時や五時では真っ暗だ。
牡丹江河の氷上渡河だ。二百米もある河を渡って行く。
銃をかついだまま、あっちでもこっちでもすてんすてんころんで居る。何にしても氷の上では思う様にならない。
渡河演習終わり。帰りは駆け足だ。何と防寒具の重い事よ。気ばかりあせって足は前に出ないやうやく部隊に着いた時は、全身汗びっしょりだ。最近の又しぼられる事は、思えば今日は陸軍始めだった。朝食後一日中休養。

最後の手紙

前略色々と御世話になりました。厚く御礼申し上げます。
愈々大任を帯びて、来る二十九日出発致します。時局の先端を行く○○部隊、南へ。今後便り出来ず、御無音のみ重ねる事と思いますが、何分留守中頼みます。
○○に敵前上陸の予定。海上操行部隊として。面会出来ず。来甲無用元気旺盛皆様に宜敷く。取り急ぎ乱筆にてさらば
九月二十七日

兄上様
秀雄より


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