軍馬日誌
宮下 秀雄
夏とは言へど此処青森の牧場、東京方面では相当な暑さであろう。北の国の真夏は、どんな暑い日でも、十八度以上登った事はない。気持ち良い風が青草の頭をなでて行く。きょぅも朝から、母馬と共に楽しく遊んで居る。
向の丘彼方の草むら、どこを見ても我等同胞の楽しく自然に、たはむれる姿である。何んの苦も無く三ケ年は、此の慶大なる牧場に育って来た。やがて夏も過ぎて、気持良い初秋の風がうす黄色い野原に、秋の深まるのを報知するかの如く感ずる時と成った。毎年々々我等の兄等は夏から秋に掛けて、定まって此の住み馴れた都を後に、新しい希望にもえて、実社会に跳出して活躍し開拓するのだ。其の多くは、大陸に内地に軍馬と成って奉仕するのだ。秋晴れの気持ち良い日の午後だった。澄み切った青空の下で午前中の運動のつかれか、ついうとうとと、草原に横たはって居た。ふと目をさますと、うちの兵隊と牧場主とが手に人参を持って、何やら言いながら歩いて居る。同胞達は我先にと此の好物な人参目掛けて集まって行く。私も思はず飛び起きて、大地を蹴って、其の人達を取り囲んだ。其の中の将校と見える人は、手に鉛筆とノートを持って居る。他の人は、腰の袋の中から小さく切った人参をつまみ出しては、我等に与へている。私も思はず其の中で一番おとなしさうな兵隊の前に出た。
其の兵隊さんは、やあ、この馬はすごいと言いながら、私の鼻へ手を当て、腰の袋から一つかみ人参を出して、手の上にのせ、私の鼻の前に出した。私は得意になって、ペロリと二・三度なめると、無くなった。でも未だ呉れると思って、其の兵隊のそばをはなれなかった。将校らしい兵隊さんが、其の馬はと言いながら、私の方を指さした。すると牧場主は、はい。此の馬は、年は四才。栗毛でアラビア系です。名前は友信号と言います。と説明して居る。鉛筆とノートを持った兵隊さんは一々書いて居る。私の腰の辺りをなでたり、後足を上げて見たりする兵隊も有る。私はなすままになって居た。其の人達はずっと牧場中廻ると、日が西の山に入る頃、帰った。こんな日が有ってから、一週間目の或日の事だった。或る目新しい手綱と飼袋とを持った兵隊が牧場内に現れた。
我々は異様な限を見張った。同時に此の間の様子から見ると、愈々私も、晴れの活躍を開始する事が出来るのだと思った。どこへ行くので有らうか。牧場の人達は、手に四角の小さな札を持って居る。其の札には皆、細いヒモが付いて居る。二・三人の人に取り囲まれて、私も生まれて始めて耳から鼻に掛けてしっかりと、新しい綱に依って結ばれた。口の中には小さな金で出来たものがはさまれていて何だか馴れない為、一寸はき出したい様な気持ちもする。時々歯に当たるので尚更、変な気持ちだった。でも、こうすると、何だか顔が引き締まる様な気もする。一間ばかり先で手綱を持った兵隊さんが綱を引くと、其の度に口の中の金具が口の奥深く入って口角をしめるので、どうにも自由が利かなくなる。人間のなすままに成るより外、仕方なかった。手綱を持った兵隊さんが案外この馬は和順ですねと牧場の人達と話して居る。
其の中の一人が先程の木の札を私の首に、結び付けて呉れた。其の札には友信号、栗毛、四才と書いて有る。私の前足のツメには十五日程前に牧場の人達に依って五〇六と言う番号が掘付けられて有る。其の将校らしい人は、首の札と足の番号とを照り合わせて、見た上で牧場の入口の方へ引っぱって行かれた。生まれて始めて此の門を出るのだ。我々の同胞は後から後からと付いて来る。私も列の中頃に成って、前の馬のすぐ後から付いて行った。
っいに我々も社会に出て働くのだ。新しい希望で胸は一杯だった。それと同時に、過去三年間生活した此の牧場がなつかしく思はれて来た。いろんな事を思って居る中に、ついに門の所まで来た。振りかえれば、今まで生活した都は秋風に吹かれて、そよそよと草むらは音を立て名残をおしんで居るかの様である。始めて門を後に外へ出だ。今までの世界とは全く異なって居る。軍馬育生所と書いてある。門も次第に遠く成って行く。どこえ行くので有ろうか。早く知り度かった。五・六丁も来たので有らう。まだ牧場の人達の見送りは、帰る様子もない。
今まで色々面倒を見て戴いた。其の恩を思へば、懐かしさが一層胸にせまって来る。過ぎた日の事を連想して居る内に、私の足は何だか一面のかたい平な道を歩いて居るのに気が付いた。生まれて始めてこんな道を歩くのだ。
足がつるつるする様な、くすぐったい様なすべる様な感じがする。あたりは見馴れないキレイな家が軒をならべて立って居る。四ツ串で、すごい勢いで私達とすれすれにすれ違って行くものも有る。其の度にヒヤッとする。
中には斯く者も有る。私も手綱の持った兵隊の背に顔をすれすれに寄せて付いて行った。私達の列は、二丁も三丁も続いて居る。見るもの聞くものすべて珍しいものばかりだ。大よそ、一時間位い歩いたろうと思う頃、駅前の広場に出た。今までずっと青森県八戸市を歩いて来た事がわかった。駅の入口には白い大きな字で筆太に尻内駅と書いて有るのが目立だった。今まで見た事もないキレイな婦人や駅の前はすごい雑踏を極めて居た。私達は駅の前広場で休憩する事と成った。兵隊達は一人で私達の手綱を四頭位い一所にして持って、他の人達は皆手にズックで作ったバケツの様なものを持って、水を汲んで来て呉れたが、こんなもので水を飲むのは始めてである。
今まで歩いて来た為かノドは相当乾いて居るが、何だかゴム臭い様な変な匂いがして、ノドを通らない。兵隊の一人は私のノドに手を当て、水をのむ回数を数えて居る。
でも五・六回のんだ口を二・三度なめた。牧場の人達は此の辺で帰るのであろう。持って来た人参は全部私達に与えて呉れた。人参に依って始めて、口の中の気分の悪いのが取れた様だ。兵隊や見送りの人は煙草をのみ、色々の話をして居る。此の間、駅内では盛んに列車が物すごい音を立て、行ったり来たりして居る。やがて私達は駅の横丁から、ホームに出る事と成ったらしい。自分の鉢がようやく通れる位の狭い所を通って、中に入った。何だかこわい様な気持ちがした。私達の仲間でも気の小さなのは中に通らなくて、兵隊さんに骨を折らせて居るのもあった。限の前には物すごい大きな貨物列車が延々長城の如く並んで居る。ホームから串にのるので有る。前の方から次第に順序よく積み込まれて行くが、仲には仲々貨車の中に入らないのも居る。兵隊や牧場の人達は汗だらけに成って苦労して居る。どうしても貨車の中に入らなくて頭から南京袋をかぶせられて、尻に綱を掛けて両側で其の綱を引かれて大きな丸太で尻をなでられてようやく貨車に入るのも居る。そんな事で私の番までは相当畷が掛かった。私も中央の貨車に乗せられた。何だか中は実っ晴でさみしい様な気もする。一つの貨車の中には六頭入るので有る。片側に三頭向かい合って三頭、真ん中が人間一人漸く通れる位の巾しかない。私達は顔を向かい合わせて、此のせまい貨車の中の空気に見取れて居た。何にしてもせまくて苦しい。身動き一つ出来ない始未だ。隣りの馬との間も全然なく、横腹と横腹とがくっついて居て、ハエが来てもカが来ても尾を振る事さえ自由に出来ない有様だった。外の方では何だか忙しさうに歩いて居る様子だ。大よそ五十分くらいして、一人兵隊が私達の貨車の内へ入って来て、干草を一束持って来た。
其の兵隊は干草に腰を下ろして、今入って来た。窓から外の方を眺めて居る。私も結び付けられた。綱にアゴの所を持たせて、外の方を見た。他の馬等も皆、力がぬけた様な格好で首を投げ出して居る。牧場の人達がお願いします。と言うのが時々耳に入る。間も無く発車であろう。ピーと汽笛が突然鳴った。思はず後ろへ尻込みした。と同時に、今まで動かなかった貨車は静かに前進を開始した。私は思はず四ツ足を踏ん張って、身体の動かない様にささえた。足の下ではゴウゴウと物すごい音を立て走って居る。兵隊は相変わらず、干し草に腰を掛けて、私達の様子を度々眺めて居る。私達も今と成っては此の兵隊さんが何よりの頼みで有る。それから三・四時間位走ったと思う頃、貨車は急にスピードを落として止まった。「宇都之宮宇都之宮」と呼ぶ聾が車外に聞こえる。
すると兵隊は素早く窓を開けて、飛び出した。調度、昼頃で有ろう。兵隊は、水筒に水を一ぱい汲んで来て、私達に与へて呉れ、それがすむと飼袋の中に大麦と人参を小さく切ったのをまぜて、それを私達の頭に掛けて呉れた。なんとうまい具合に人間は考えるんで有ろう。最後に少し残れば、首を少し上下に振ると大麦は残らず口の中へ入ってしまった。私達の食事をして居る間、兵隊さんも飯金を出してヒザの上に置き、干し草に腰掛けて、うまそうに食べて居る。食後三十分位い休んだと思った頃、貨車は又、発車した。兵隊は窓を少し開けて、外の景色に見取れて居る様子だ。涼しい気持ち良い風が車内に入って来る。列車は今、東北本線を東京に向かって走って居る様子だ。午後の六時。朝から身動き出来ないので、相当な疲労を感じて来た。午後七時。列車は又、小さな駅に停車した。外はもううす暗く成って居た。此所で又、例の如く夕食をすました。其の後、何時聞か過ぎたであろう。自分は、今までの疲れからつい深い眠りに入って居た事を知った。兵隊さんも寝て居る。どうやら、明け方の様子だ。車内の薄暗い電灯は消えて、気持ち良い朝の光が窓を通して車内に入って来る朝だ。兵隊も限を覚まして、窓より首を出して眺めて居る。長い間の列車内の生活。全く疲れた。列車は止まる。津田沼駅と呼ぶ聾が聞こえて来る。どうやら終点らしい。外は次第に賑やかに成って来た様子だ。兵隊は素早く飛び降りた。私達は四十分位掛かって、朝の津田沼駅に降ろして頂いた。
うれしさのあまりピソピソ飛び上がって兵隊を困らせて居るのも有る。其の度に所所でオーラオーラと言う兵隊の声がする。私もグーッと身体を伸ばしてブルプルと身体を四・五回振った。一昨夜の疲れが一時に去った様な良い気持ちだった。駅前広場は、私達を迎える為だろう。
兵隊さんが、沢山並んで居る。私も、間もなく其の広場に引き出された。其の中の将校らしい兵隊さんがノートを見ながら、点呼を開始した。相当の時間が掛かった。
やがて、昨朝歩いた事の有る八戸市の道路と同じ様なアスファルトの上を進み始めた。此処はそんな賑やかな町ではなかった。道路の両側はバラバラに農家が見える。
全て田ボと野原だ。およそ三十分歩いたと思った時、左側の目前に綺麗な大きな門が見えて、そこに銃を持った兵隊さんが一人立って居る。ああ、私達は此の連隊に入るので有ろうか。右側の門の柱に鮮やかに騎兵第十六連隊と書いて有る。私達は此の門をくぐって中に入った。
調度昼頃に成って居た。私達は門より一丁程行った所の、新しい馬屋の中に入った。途中の馬屋は我々の先輩がきまり良く尻を揃えて並んで居るのが目に付いた。此の新しい家は、我々が入って来る為新しく作られたものと思った。其の中には、すでに兵隊の手に依って新しい藁が一尺通り位敷かれて有った。馬と馬の間には、横木が有って、仕切って有る。私も左から二番目の馬房の中に入った。長さ一米半位のクサリに依って、私達はつながれた。
思い出せば、今までの自由な生活が急に懐かしく成って来た。と同時に、今までの疲れが全身に感じて来た。私ほ、横に成ってグッと足を伸ばして、寝てしまった。それからどの位時間が過ぎたか、ガヤガヤと言う人声に目を覚ました。兵隊が大勢入って来て、色々の話をしながら、私達を端から見比べて居る。こうやって私達が此の隊に入って来てから二・三ケ月。現在の様な生活にも少しは馴れて来た。私の馬房の上の方には、長方形の板に白いエナメルで上の方に栗毛友信号五才。佐野調教手と書いたのが、ぶら下がって居た。他の馬房にも全部見えた。以来私は此の佐野調教手に依ってかゆい所に手の届く様、面倒を見て戴いた。どんな寒い日でも朝夕、私達の身体にハケを掛けて、つめたい水で足のツメを洗って油をぬって呉れた。最初は馬場に出て、長い綱を付けて、其の綱の先を調教手が持ち、片手に竹棒を持って後からシッシッと言うので、私は円形を描いて馬場の中を歩いた。こんな事を二時間もされたなら、私達の体は汗だらけに成ってしまう。うんと水も飲んだ。又、食べもした。
お陰で自分乍ら牧場に居た時にくらべると、ずっと身体も太った様な気がする。私達は、一日中のつかれを休めて毎朝元気な顔で此の調教手と顔合わせするのが、一番楽しみだった。調教手も早くから来て、我々の鉢を頭の先からツメの先まで、点検して異常有無を調べるのが朝の日課と成って居た。寒い木枯らしの吹く日だった。調教手に連れられ私は、未だ一度も来た事のない工場の前に来た。そこには多くの兵隊さんが白い作業衣を着て、真っ赤に成った鉄をトンチソトソチソ勢い良くのばして居たのも有れば、ピンセットの大きなのでそれをはさんで、器用に延ばして居る。やがて真っ赤に焼けた鉄をはさんで来て、私の前足を持って居る兵隊に渡した。兵隊はしっかりと足をおさえて真っ赤に焼けた鉄を私のツメに当てた。私はトタソに少し前へ出ようとしたが、足をしっかり持たれて居るのでどうにも成らなかった。と同時に、こげる様な匂いと共に、煙がもうと顔の辺りを覆った。しばらくすると又、小刀でけずり始めて、こんな事を何回くり返して居る内に、足には完全な鉄が打ち付けられた。大体、三時間位の時間を要した。最初は、何だか足が重い様な気がしたが、二・三日達つと、何とも無くなって歩く度にコツコツと気持ち良い音を立てた。どんな悪い道でも平気に安心して歩ける様になった。四・五日の中に私達仲間の者は全部鉄を付けられた。
今日は朝から小春日和の気持ち良い天気だった。調教手が大勢揃って、鞍と轡を持って入って来た。佐野さんは、私の背に毛布をのせて其の上に鞍を置き、ギユーと腹帯を締めた。背中に鞍がピソとくっついて、腹が引き締まった様な感がした。調度、背中の形に出来て居るので、全然背骨には当たらなかった。それが終わると、今までつないで有った金具のトウラクを外すと、やわらかい草で出来た轡を装せられた。口の中には例の金具が二本入れられた。其の一本は真ん中で少しまがって居る。
私は二列に成って外に出た。何時も引き廻される馬場は通り過ぎた。アスファルトの道路が終わると、そこで全部たてガミを握られて乗馬した。別に苦痛も感じなかった。三十分ばかり行くと、青森に育った時の牧場より、尚広いと思はれる原に出た。春の訪れか、草の若芽は青く地上に首を出して居る。西も東も一寸見当の付かない一面の原だった。それにしても思い出すのは青森の牧場の事だ。牧場もさぞ変わった事だろう。牧場の人達は元気であろうか。こんな事を考え乍ら、最初は並足早足掛足と、気持ち良く大地を蹴って飛び歩いた。力がぬけると、佐野さんは長靴に付いて居る柏車で軽く私の横腹をつつく。私はくすぐつたい様な、いたい様な気持ちで、又駆け出す。止めたく成るとグーツと手綱を引くからたまらない。口の中にクワヘて居る轡金のまがったのが舌をおさえ付ける。いたくて、前へ行く事も何をする事も出来なく、其の場に止まってしまう他ない。人間なんて全く、うまい事を考えたものだ。ハリ辛が自動車の加速ペダルで有ったなら、大口クは何だかおそろしい様な気がして一思いに飛ぶ事は出来なかった。二・三度やって見たがどうしても駄目だった。障碍の直前まで来て止まってしまった。でも、背の上の佐野さんは、あきらめる様子は更になかった。障碍の右の端をまはって行こうとしても右の手綱を強く引くので、向こうへ行く事は出来なかった。何回も障碍の先二十米位の所から、真っ直ぐに障碍に向かって走った。私も今度こそと、まっしぐらに障碍目掛けて行った。二・三米の前に来ると、ソラと言ったら柏事で横腹をボンと蹴った。どうにでもなれと前足をちぢめて一気に乗り切った。其の時は全身汗でビッショリに成って居た。私は今までに、今日程身体の疲労を感じた事はなかった。其の後は此の原に一度は必ず障碍を飛ぶのが習慣の様になって来た。こんな色々の事を教育されて居る間に、此の十五部隊に来てから一ケ年の歳月は流れた。時、昭和十四年九月だった。私も過ぎた一年の調教に依って、自分でもどうやら一人前の軍馬と成った様な気もして来た。体の方も身長一米六十六、体重四百八十キロと言う。どうどうたる体つきと成った。気持ち良い初秋の風が此の習志野にも訪れた。私達もどうやら、一通りの教育も終わったらしい。十月の初め、私達は、愈々一人前の軍馬として各部隊に配属させられた。
私の来た所は、○部隊○班だった。そこには、すでに先輩が大勢居て、私達を迎へて呉れた。同じ班に行ったのは、私ともう一頭の盛春と言う黒影の馬だった。体はあまり大きく無かったが、物すごい元気な馬だった。私の戦友は、一昨年入隊した。鈴島号。この先輩は私の右側の馬房に居た。左に居るのが一緒に入った、盛春号だった。私の馬房は北側の左から五番目だった。設備に置いては此の前居た馬房と全然異なっては居なかった。只調教手が兵隊と変わっただけだった。以来私達の面倒はすべて兵隊に依って、見て戴く事と成った。四、五日すると私の馬房の上の馬名札に、友信号栗毛六才木谷一等と書いたのがぶら下げられた。そこで今度の私の主人は、木谷一等兵で有る事が分かった。が、未だ、五日や六日では同じ様な格好をした兵隊ばかりで、どの人が私の主人の木谷一等兵で有るか皆目見当が付かなかった。早く其の人の顔が見たい様な気がした。何だか今までと異なって、馬屋の中が急に賑やかな活気付いた様な気がした。
秋晴れの天気が毎日続いて居る。朝夕は少し寒さを感ずる頃に成った。朝五時、兵隊さん達は、白の作業衣一枚で元気良く駆け込んで来て、馬屋番勤務御苦労様でしたと挨拶して居る。確かに馬屋番は御苦労のはずだ。夕方の六時から其の明くる日の六時まで二十四時間は、夜も寝ずに、私達を監視したり掃除をしたりして居るのだ。
全く感謝の他はない。朝皆が来るまでには、ワラのキレ一切ない様に清掃されるので有る。ここで付け加えて置くが、私達の糞を兵隊はポロとよんで居る。私達も此のボロを一日には数回やるので有る。それが何頭も居るからなくならない。一夜の中にひと山出来てしまう。其の馬屋番は、私達のやったポロをゴミ取と木で作った、小さな熊手の様なものではじからキレイに始末して呉れる。
実に気の毒な事だ。掃除が終わったり、ボロ取りが終わったりすると、今度はオシ切りを持って来て、私の一日中の食事とする。切ワラを切り始めた。数が多い為、相当な時間を要して、汗だらけに成って小切って居る。私達の休む間も全然休まない。こうやって朝多くの兵隊の来るのを待って居るので有る。兵隊達は、朝早くからシャツ一枚で私達を引き出し水与えをすますと、軒下の馬撃場につないで呉れた。それがすむとモッコを持って来て作夜、私達の寝たワラを全部モッコにのせて外に干し、内はきれいに掃除して飼船の中には、朝の食事が準備された。私達の殊には、金グシやハケでこすって戴いて、足は水洗いし油をぬって呉れた。全く気持ち良い感じだ。
こうやって私達は、完全に今日一日働く準備は出来た。兵隊達はこれだけの仕事をするのに、五時から六時までの一時間位の短時間で終わってしまう。実際活発に動くものだと感心した。私達も限の当たりに、此の兵隊達の活躍を見せ付けられて、思はず君家の為大いに働こうと決心した。でも他の馬連にくらべると未だ新馬の関係か演習に出る時も案外少なかった。兵隊は、夕方五時位になると、またシャツ一枚に成って朝干した所の藁を掛聾も勢い良く、入れて呉れるのである。お陰で私は一日のつかれを、充分気持ち良く休める事が出来た。こんな生活も三ケ月位では夢の如く過ぎて、早正月を迎えた。私も七才と成った。兵隊さん達も年末の休暇やら、祭日やらで面白そうに遊んで居る。私も完全に一人前の軍馬で有る。もう私達も大体班内の兵隊さんの顔も覚えたし、一人一人の心持ちもようやく覚えて来た。仲には物すごい短気な乱暴な兵隊も居るし、そうかと思えば、とても可愛がって、やさしく面倒を見て呉れる兵も有る。万物の霊長人間でさえ、斯の如くで有る。ましてや我々馬に於いては、これ以上だ。これだけは、どうにも修正する事は出来ない。元来私達は、蹴る事も噛み付く事も全然知らない。けれども一般の世間人は、馬と言へば蹴ると噛み付くより外、何も知らない、何如にもおそろしい動物の様にしか思って居ない様だ。誠に残念な事だ。私達も長い顔をして人相が悪いから仕方ないと思っては居るが、其の原因は大体人間に有ると言ってもたいした問題ではないだろうと思って居る。私も此の班に来てから、色々の事を見せ付けられた。私達の先輩の或る馬が間違いで兵隊さんの足を踏んだ。所が其の兵隊が物すごい短気な兵隊であったからたまらない。忽ち烈火の如くおこって、ホウキを逆手に持って尻をピソピソなぐり付けた。
こんな事をされたら防衛上蹴るのも当たり前でありませう。そんな事も時々見受けられて、私も、牧場に居た時にくらべると少しは荒れ気味になって来た。あまり意地の悪い兵隊は、一蹴りしてやりたい様な気持ちさえ出て来た。しかし私の主人の木谷一等兵に限ってそんな事は更になかった。最近では、足音、歩き方に依って、あゝ木谷さんが来たと言う事を直感する様になった。木谷さんは、厩舎の入口に来ると、「友」と呼ぶのが通例になって居た。私は緩く顔を向け、二・三度ヒヒソといなないた。そして前がきをしながら、向かえた。馬房内に入って来て私の首にぶら下がったり、顔をなでたりするのが常で有った。私もそんな事をしてジャレて戴くのが何より楽しみだった。時にはパンや人参もこっそり物入れの中に入れて来て呉れる時も有った。私も木谷さんの来る度に、物入れに顔をこすり付けて、匂いをかんでみる様になって来た。我々馬に対してこれ以上の幸福が有るで有ろうか。私もこの人なら、戦場に行ってもいさぎ良く生死を共にするに充分だと思った。しかし私達も生物である以上、時には鉢の調子の悪い日も有った。しかし兵隊さんはすぐ見付け出して呉れる。それは、二月の或る寒い日だった。一週間も雨天が続いて、今日は又、雪さえまじる寒い日だった。私、急に腹部に痛みを感じて来た。私達馬の病気の多くは、腹痛で有る。兵隊は、此の腹いたの事を、仙痛と呼んで居る。私は昼間休んだ事はなかったが、今日はどうしても我慢出来なくなって午後三時頃だったが、つい構に寝て苦しさのあまり少しもがいた。全身汗ピッショリだった。白い作業衣を着た、馬屋番は片手に等を持って駆け付けるとアレッと言って篇の柄で二二二度私の尻をひっぱたいたが、私は起き上がる元気さえなかった。忽ち六、七人の兵隊が集まった。私はやうやく我慢して立ち上がった。でも苦しくて仕方なかった。私は五、六人の兵と一緒に獣医室につれて行かれた。そこには獣医将校が二・三名居た。私は兵隊の手に依って太い丸太で出来た四角の枠の中へ入れられた。
丁度鉢いっぱいだった。胸と尻の方には広いベルトが通って居て、すはるにももがくにも全然身動きは出来なかった。ほんとに立ったままだった。其の周りには班内の兵隊さんが沢山居て、腹をこすって呉れる人もあれば、ゴム管で出来て居る管で薬を入れて呉れる人も有った。仲でも木谷一等兵の心配そうな顔付きは、今尚心に残って居る。皆の懸命なる介抱に依って、私もいくらか気分も良く成って来た。腹には毛布が三枚巻かれて、広々とした新しい藁の敷かれた部屋に入院してしまった。夜通し一時間位の交代で私の側から、一人も離れなかった。木谷さんは寝ずに水を持って来て呉れたり、色々面倒を見て呉れた。明け方に成ってすっかり元の元気に戻った。
皆、嬉しそうだった。明くる日の昼頃、私は又元の班に戻って来た。何だか今までの事が、夢の様な感じがしてならない。相変わらず自分の班には賑やかで活気が有った。二月三月は夢の如く流れて四月の桜の侯と成った。兵隊も馬も若き希望に満ち満ちて居る。我吾は、此の若芽出る春が一番嬉しい。習志野の原は一面に、青草に覆はれて来た。我等は此の自然の訪れに依って、大いに頑張る事が出来得るのだ。今日も朝からカゲロウもえる気持ち良い天気だった。私は相変わらず木谷さんを背にして、演習に出た。今日は習志野の原を通過して、龍の不動に御参り努々、花見だった。兵隊は皆、嬉しそうだった。二時間位して目的地に着いた。私の鉢は気持ち良い一汗が、全身ににじんで居た。初年兵さんは、一人で四頭位ずつ手綱を握って、煙草をのみながら故里の事でも考えて居るらしい。二年兵、三年兵は、車座に成って、芝生に腰を下ろして面白そうに語って居る。そうかと思えば、「春は嬉や 大龍の花見 咲いた櫻に駒止めて駒が勇めば 花が散る。チョイト散らせて又咲かす」 こんな唄を唄いながら、楽しく一日も過ぎた。兵隊達は此の世の中で、一番苦しい思いも味わうだろう。又、誰も知らない楽しみも有るのだ。其の間、軍人精神は養われ、どんな困苦決定にも耐える事の出来得る様に成るのだ。
軍馬祭、軍旗祭と色々、軍隊の行事も進み、観兵式秋期演習、時して世は支部事変拡大し、私達にもついに、待望の動員が下った。兵も馬も皆、張り切って居る。○年○月○日、私達は多くの戦友と共に、戦地に向けて出発した。国家の為、大いに活躍する覚悟だ。
終
十六年九月十六日
宮下 秀雄 遺稿
(宮下秀雄君の遺稿と思われます。大石良雄さん宛か)
五分も十分も見とれて居た。二時出発文部隊に向かう。
無事午後八時到着荷物の積み込み何をする間もなし。帰って来て不寝番。十時半休む。
七月八日。本日も昨日の如く輸送の任務を果たす。
七月九日。本日で三日間三十里の道を往復す。体はくたくただ。でも、事故もなく三日間終わる。
七月十日。本日休み車両応急整備油だらけになって整備す。
七月十一日。本日車両及弾薬送納の為、東安に出張一泊の予定貨車十八両。午前三時起床、四時出発。道路は相
変わらず悪く、体は綿の如くつかれた。
ひっきりなしに走り夕刻目的地東安に到着。先ず弾薬を送納す。あまりの設備の良く出来て居るのには七月廿五日
夏だ相当の暑さが到来するものと覚悟して居たが思ったより凌ぎ良い習志野よりまだまだ涼しい気がする。いや涼しい所ではない。夜間は冷気さえ感ずる。寒いより暑い方が凌ぎ良い様な気がする。四月一日。以来毎日鍛工手として軍雇と共に自動車の修理作業だ。自分でも相当な腕に達した事を感ずる。毎日の仕事は面白さを感じつつ、有意義なる軍隊生活を送って居るこれが最大なる奉公だ。
七月廿六日日曜日
我等に取って日曜が一番嬉しい何よりの楽しみだ。小隊員全員にて会食一ぱい早速正午より昼寝。一ぱい気分にてうつらうつらとす。夢の如く現の如し。戦友達のカゴの鳥や、国境の町の歌が流れて来る。
自分では気がつかなくとも身体的に精神的に相当な修養と言うか人間としての価値が出来て来て居るのではなかろうか。それとも俺の心のうぬぼれか、とにかく苦労した事は実際だ。でもこれが人並みの事であって、男として踏まなければならない道なのだ。
八月五日。愈々明日より移動輸送開始される。午前中車両検査、午後荷物の積み込み。
八月六日。貨車二一六号。調子悪き為、本日車両整備八月七日。午前四時起床、五時出発。三十里の工程を目的地興凱に向ひ行軍す。道路悪し、午後一時到着。九ケ月振りに始めて汽車を見た。只呆然として。
八月十九日。今までで今日が一番暑さを感じた。日中は相当なものだ。眼の前がチラチラする感じだ。
ブヨ何とブヨの多い事よ。夕方より明朝入時頃まではうっかり外へは出られない有様だ。戦斗帽のアナの中から頭に入り、はては背中まで入る。手でおう。おって居るその手に幾らでもつく。実に閉口する。二十米連続歩く事は出来ない。途中でしゃがんで足をカカなければどうにも仕様ない。点呼が一番つらい。点呼が終われば足はプクプクだ。でも家の中は暑いし、外へ出ればブヨ、冬は零下四十度。夏は暑い上に斯の如くブヨ。こんな真夏の暑さでも、一度夜中になるや寒さを感ずる。でもこれが人生の修養であり、又御国の為なのだ。何如なる苦しみでもやって来い。我に力あり。
八月二十二日。本日戦車神社祭典。又七五五戦車隊創立記念とを以て、朝早くより大々的祝典を挙行をす。天気良好なり。十日前より演奏会の練習各中隊共ものすごき張り切り方だった。午前中競技会午後兵隊の演奏と賓清より招待せし、日本ピー朝鮮ピー八十名合同にて盛大に行はれた。ものすごき振るまいなり。渡満以来八ケ月、今日始めて女郎では有るけれども日本婦人の姿をありありと目の前に拝する事が出来た。なんとも言えない気持ちだった。第一線では女郎でもいざ斯の如き合の場合は国防婦人愛国婦人のタスキ掛けだ。宝清全部のピー八十名。将校の頭数にもとってつかない。何れも三十近い女であろうがお高く止まって、てんで兵隊なんか相手にしない。内地に行ったら女はあまって居ると言うのに又何と言う事だろう。あまり良い女でもなささうなのに。でも良くこんな異国の山の中に来たものだと感心する。其の点やはり戦争に女はつきものである。男と女は何所へ行ってもはなれる事の出来ないものである事を感ずる。
八月二十四日。今日は又何と寒き事よ。内地は今頃は真夏の一番暑い時分と思うのに、シャツ一枚上着一枚着たのでは寒さを感ずる。其の上に作業衣を着る始末。なんと閉口するのではないか。調度晩秋の様な気持ちだ。これが八月二十四日真夏の時候とは!!
八月廿五日。近日中七五五部隊解散移動ある様子。本日より兵隊全部に封しお便りの差し出しを禁止せらる本日旧暦七月十五日。御盆なり昨日に比べると今日は日中は相当暑い。夕食後より部隊前の小高き丘に立ち雲なく晴れた大陸の満月を拝しつつ、故郷の事を偲びつつ。旧お盆を思い出す。それで三ケ年間御盆もせずにしまった。
来年こそ楽しきお盆を故郷で味わいたいと今から期待して居る次第だ。本日移動の為の荷造り作業開始せらる。
八月二十九日。朝五時半起床夜は九時三十分只夜がみじかくねむいねむい。入時より午後五時半まで工場にて作業。午前中十五分午後十五分休むのみ。体のつかれるのは当たり前だ。朝のねむさは又格別だ。でも起床ラッパはどうにもならない。嫌が上にも起き上がるのだ。
それのみでは何でもないが其の上、衛兵勤務車廠当番工場当番不寝番中隊当番とあらゆる勤務が待って居る。長くて三日寝ると勤務出張とか演習で人員が少なくなると殆ど一日置きだ。良くも身体が斯くの如く続くものだと自分自ら体の強さに感心する。やはり体はつかわなくては駄目だ。それで体は益々強健になるから不思議だ。此の調子で軍隊に居る気持ちになって家へ帰って働いたら忽ち大成金になれる。うんと働いたからと思って居るが帰ると又其の時其の時の風が吹くからどうかと思うが、とにかく其の気持ちが持てる様になって来たのも軍隊の御蔭だ。其の事を思うと、長い人生の三ケ年間位なんでもない。家にいた所で別になす所なく三ケ年位は過ぎて驚いた。流石北満東安省の首都だけあって相当なものだ。
町の大半目抜きの所はほとんど日本人だ。なんだか内地の都会へでも帰った様な気持ちだった。そして日本の力のあまりにも偉大なるも痛感する。この町には始めて見るキレイな日本婦人も居れば、又一流のクーニャンも目にとまる。これが東安の始めてであり又最後である。俺の人生に二度と北満東安の土を踏む事は出来ない事だろう。
九月十二日。午前中車両送納十二時東安出発。宝清向かう全員相当なつかれを見せる。本日ものすごき車両事故起こす。貨車二一五号ダソガイツイ落、滅茶苦茶目の当たりに斯の如き事故を見せ付けられるとなんとなく自動車がおそろしくなって来た。でも俺等の車は無事。午後九時、宝清到着。長い間のつかれを休めんとすれば又今夜は不寝番。本日より急激に温度下がる。夜は相当な寒さを感ずる。内地の初冬の感がする。
九月十三日。出発隊本日二時三十分起床出発。修理小隊で後発。藤原軍曹と俺と二人のみ。今日は一日ゆっくり休養愈々明日は出発だ。
九月拾四日。愈々本日目的地に向かい出発すべく午前二時半起床。四時三十分秋風のうす寒く吹く中を貨車はコウリヤン畠と大平原の間をば興凱に向かい前進す。十時半興凱に到着。戦車荷物の積み込みをなす。四時二十分興凱出発。九ケ月振りに懐かしき汽車に乗った。でも貨物車とは情けない。一つの貨車に三十名只座ったまま、足さえ満足に延ばす事すら出来ない。一番弱ったのは便所のない事だ。四時に小便したきり、明くる日の入時まで我慢し通した。自分自ら感心した。寒くて昨夜は一睡も出来ず。
九月十五日。尻はいたくなるし毎日汽車。弁当一人の男が汽車べん一つではどうにも腹がすいてたまらない。誰も同じ事だ。でも誰一人不服を言うものとてない。やはり皇軍将士だ。午後六時目的地スイヨウに基地到着。うす暗いホームで戦車荷物を下ろす。相当発達した国境の町なり。九時三十分。戦車隊に入る。今までの部隊と別に変わる所なし。只中隊が多いのみ。大半は一二三四に、転属せらるも幸い小生は今まで通りの中隊なり。
ここは御国を百里
離れて遠い北満の国境
警備の任につく
任務は重し戦車兵
酷寒零下の其の中に
草木も枯れる炎熱に
御国に毒す真心は
何かおそれん
祖国の護り
赤い夕日の丘に立ち
銃を片手に警備する
父母よ妻子よ達者で居るか
男に召されて来たからは
覚悟は堅し此の鉢
故郷に桜の花の咲く頃は
過ぎし昔を思い出す
ああ青春の夢よいづこ
呼べど帰らぬ思い出を
胸にうかべて月下の歩哨
九月十二日。本日東北四蘇代表皇軍慰問団当隊に来る。
午後一時開始せらる。久方振りに水もしたたる様な純日本婦人。秋田美人の演奏を見る。急に内地を思い出し色々の事を連想して楽しく一日を終わる。これが前線将兵の最大なる楽しみだ。兵隊ならでは味をう事の出来ない楽しみだ。
九月十五日。「寝言」何故最近になって毎夜々々斯の如く寝言を言うのか。自分でも感心する。相当自分でも気を付けて居る心境で居るが駄目だ。考える事が多いのかそれとも心が動揺して居るのか。たしかに精神的に幾らか変化を来して来た事は事実だ。昨夜も不寝番に起こされた。あまりつまらない事を言ひ出さなければ良いと自分自ら心配して居る次第だ。
前略色々と御世話になりました。厚く御礼申し上げます。愈々大任を帯びて、来る二十九日出発致します。時局の先端を行く00部隊、南へ。今後便り出来ず、御無沙汰のみ重ねる事と思いますが、何分留守中頼みます。
○○に敵前上陸の予定。海上操行部隊として。面会出来ず。来甲無用元気旺盛皆様に宜敷く。取り急ぎ乱筆にてさらば
九月二十七日
兄上様
秀雄より
昭和十九年十二月二十三日
九時すぎフィリピン・ルソン島リンガエン湾の北サンフエルナンド港上陸を前に乾瑞丸・米潜水艦魚雷3発半数の一、二〇〇人死
陣中日誌
昭和十七年キング五月号口絵
国境方面にて一週間に於ける間、行われた冬期大演習。
零下○○度の寒気を征服しつつ進撃する我が鉄牛部隊の進撃。北遽の護は堅し。
(満州第七七五部隊戦車隊の勇姿)
西部北満に於ける歩兵部隊の活躍。零下○○度正に銃も剣も氷る寒さの中。国防の第一線に立って、活躍。警備の任務を全うする皇軍歩兵部隊の勇姿。
六月二十日
昼間は物すごき暑さにて相当の苦痛さえ感ずる。然るに夜の十時以後、朝六時頃までは急撃に寒気加はる大陸特有の気候と言うのであろう。其の気候になれるまでは、仲々一苦労だ。真夏の七月でも夜間勤務者は外套着用なり。
夏の日曜の正午兵営の一偶よぅ流れるアコーデオンの音。さて名曲の主は、毎日の演習に勤務に精進した。つかれ
をば兵隊達は日曜に依って、回復するのだ。そして自分達の手で間に合う程度の演奏会もやり、アコーデオン、ハーモニカなどに依り一日の日曜を楽しく送り、明日への原動力を養うのだ。第一線の将兵にはこれ以外には何の楽しみもないのだ。
六月二十一日。ああ財産欠乏す。一ケ月の予算を立てて残ったのは、月の始めに全部貯金してしまった。普通なら、間に合ったのであろうが、何だかかんだか色々の付き合いで懐中僅か二円七十銭、これで後十日間持たせるのだ。別に外出して悪銭を使った訳でもないが、金のないのは何となく心さみしい。畢隊に来て始めての心細さでも良い経験になる。どうやら俺一人でもなさそうだ。
地方では一人前の男が二円や三円ばかりでは恥ずかしくて仕方ないが、軍隊はこの位の事は一向に平気だ。人並みの事だ。内地なら一寸一筆の元に、早速送金して頂く事も出来得るが、此所はそうは行かない。却って思う様にならぬ所がさっぱりして良いかも知れない。
ゴウゴウと大地を壓すエンヂンの音。行けど行けど皆荒野原。
今日も露営か大陸に、西も東もはてしなし油と汗にまみれつつ、見よ戦車の前進を。昼のつかれを幕舎の中で防蚊覆で顔を覆い大きな手袋手に着けて、露営の夢はさて何如に。
六月二十七日
御国に捧げた此の体、覚悟は堅し戦車兵聖戦寓里海をこえさく風すさぶ大陸に我がせいえいの行く所。常に先方戦車あり。敵火雨中物かわと騎兵の進路聞きつつ、敵陣深くじうりんす。勇ましきかな戦車兵。
あの山この谷、勇ましく血潮を流した兄弟よいまこそ微笑み聴いて呉れ我等が勝関建設の唄輝け荒野の黄金雲。
夜明けだ夜明けだ大陸に、見よ皇軍の大通行。大東亜の建設よ。光は輝く大陸に(北満国境の町の一風景)
零下四十度の中、見よ。
戦車整備兵を、組立兵か鍛工兵か。重い防寒具身につけて、守りは堅し北満の、任務は重く園の為、苦労を共にする我が戦車
我が大君に召れたる日本男子の歩武を見よ。
何如なる苦労も何のその。我等は皇軍戦車兵。
(小休止の折の戦車点検)
虞望千里国境の空。今ぞ世紀の朝ぼらけ興亜の使命隻肩に、誓いて立てり、雪の歩哨。
見よ、前方にはロシアの町のネオソが光々として居る。モクモクとして警備する。守りは堅し生命線。南方で大々的な戦火の場の蔭にはものすごき寒さの中、北過の守りの堅かればこそ。
激しい北風を受けて手も足もしびれてしまいそうだ。何処を見てもただ地平の一線が白く空と合しているだけだ。雪の虞漠地帯で有る。
戦車は白く偽装されて居る。零下三十度の中。
ものすごい北風を受けて整備する戦車兵。
何如なる困難も打勝つ必勝の信念を平時より養って居るのだ。大東亜戦争の輝く戦果は決して偶然ではない一斯の如く北邁の護りが盤石なればこそだ。
七月十二日。召集解除只待つはそれのみ。別の軍隊が苦しいのでもなければ、いやになったのでもない。只無我夢中で故郷が恋しくなるのだ。二年六ケ月。一部には九月当たり満期するとのうわささえ出る。あまり遠くもない事であろう。長くも半年だ。今少しの心棒だ。自分の心をなぐさめるのみ。
七月二十日。夏の日の夕暮れ高き丘に立ちて、暮れ行く真夏の太陽を眺めつつ、色々の事が連想す。遠か故郷の方向に向かい思い出を呼び起こす。過去の軍隊生活を、家庭を、そして今自分は大陸に来て居る事をしみじみと夢でなく、実際である事を思う。なんだかすぐその山の陰が内地の様な気がする。何百里と離れた大陸とは全く思はれない。
砲兵の援護射撃の下
見よ陣頭に立って敵陣深く揉踊す戦車の進撃を我に向かう敵はなし。頭寒零下の中、草木も枯れる炎熱の下、何如なる苦労も、のりこえて、陸の王者戦車陣はモクモクとして轟忠報国の誠を尽す。
昭和十七年七月廿日
○○方面に活躍する我が戦車部隊
七月廿日
愈、明日は○○方面出発だ。
戦車整備兵、補給小隊の出発
準備の為、燃料、食料を積載。明日の戦闘に寓事、落度なく準備するのだ。物すごき戦車の攻撃の蔭には、汗と油にまみれつつ、日夜活躍する補給小隊、修理小隊があればこそ。其の目的を達成し得る事が出来るのだ。
出発前の補給小隊のドラム缶の積載作業。
何如なる障碍も何の其の我に向かう敵はなし。我等鉄牛部隊のものすごき訓練を、斯の如き訓練があればこそ一朝有事の際、一歩も敵にゆずることなく電撃作戦も成功するのだ。
夜も日も分からぬ戦車の猛訓練。
昭和十七年九月十六日
昨夜十二時就寝。今朝六時起床。起床ラッパまで何も知らずぐっすり休む。急に寒さを感ずる時候となり、今朝は一面の初霜さえ見る有様なり。これが九月中旬の気候かと驚く。未だ落ち着かず土地気候に馴れない為だろう。
本日綬陽駅にひとり荷物の運搬に任ず。
九月十七日。前日通りの作業を続け、昼休みに綴陽の町を見物す。相当賑やかな国境の町なり、町の大部分はほとんど日本人なり。久方振りに内地に帰った様な気がする。午後三時。仕専を終わり帰宅す。
九月十八日。本日より冬衣袴着用なり。
九月二十日。
本日第八師団長の訓示あり。騎兵第三旅団より第八師団に午後二時新活部隊長の訓示行ほる。
本日を以て、今月一日より行はれた所の新機甲団編成完結す。
十月五日。ああ又寒風すさぶ冬が来るのか。今が一番気候は良い。本日外出が許可され、戦友揃って絞陽の町を見物す。さながら兵隊の祭りの如く、何処へ行っても町中兵隊がおしあるいて居る。別に見るものとてない。只軍人酒場で食事でもして、一ぱいやるのが一番の楽しみだろう。町の大半はピーヤだ。ほとんど朝鮮ピーだ。何処のピーヤを見ても満員だ。早朝からこの始末だ。こんな所は一寸銃後の人達には見せたくない。仕方なし友達と映画見物で一日を送った。夕方気持ち良く部隊に帰る。
本日の小遣い一三円七十七銭。赤い夕日を浴びて一里の道を帰営す。気持ち良き秋の夕日を背に思はず、合唱する歌は「赤い夕日の他国の空で偲ぶ思いは皆同じ。泣いちゃいけないえがおを見せて。強く生きるのよ いつまでも」
晩秋の大陸に聾は流れ遠き山々にこだまして軍靴のひびきもみだれみだれに大陸の我が家に帰り行く。ああこの気持ちこそ幼き日カバンを肩に学校帰りの楽しき昔を思ひ出す。
十月七日。毎日毎日工場出場。六キロハンマーを振りつつかなしく暮す。これが最大なる御奉公か。御蔭で鉢は良くなるし、最近では相当な腕に達した事を自覚する様になった。何を覚えても損はない。家に帰ったらおおいに腕を振って皆を驚かしてやろうと今から期待して居る。
十月十六日。靖国神社。臨時大祭午前十時より営庭に於いて遙拝式挙行す午後新京より慰問団来る。今までに一番おもしろく何もかも忘れて、午後五時まで楽しむ。何に付け彼につけ最近は急に故郷を思い出す様になった。
十月十七日。本日神嘗祭にて朝から休養一日中面白く量らす。寒さ日に増し加わって来るのみ。
十月十八日。本日日曜朝から休養。毎日毎日心が動揺するのみ。殊に最近に於いてはげしくなって来た。やれ召集解除。やれ移動と頭の中は、くしやくしやだ。只一日も早く後一ケ月ばかり経過して暮れると、良いかと思うのみ。来月一ケ月末には何とか目星がつくのではなかろうかと今から楽しみに待って居る。でも幸い健康にめぐまれて元気益々旺盛喜ばしき事なり。
十月十九日。一日一日と寒さがつのるばかり。今日当たりは日中でも相当な寒さを感ずる様になって来た。工場にて銃を手にするのも何だか思いなやむ様になって来た。今朝は工場の裏一面に氷が張りつめた。調度、内地静岡嘗りの真冬位の気候ではあるまいか。
十月二十一日。昨日よりペーチカ使用許可されると共に、防寒福神袴下着用を許可さる。未だ暦の上では秋なるに満州では最早本格的の冬の到来なり。本日夕六時より夜間演習。調度内地の真冬位ひの寒さの満月を浴びて、陣中勤務の下十度枯れ草の上に伏して実施。内地で挑むればさぞ晴れ渡った秋の満月で其の眺めも一殊独特な眺めてあらうがこうして異国のはての国境の荒れ野で演習をやりながら故郷の事を考へ眺める月も又何とも言へない。
大東亜戦争下北満警備思い出の月だ。
十月二十二日。本日の寒さは又格別だ。手や足が痛い。
いやでもおうでも又冬だ。日中でも相当な寒さを感ずる内地の真冬以上だ。夜七時入浴帰りに早五十米も歩かない中に、手拭いは棒の如く氷るこの寒さの中で元気一ぱいに帰り切った。兵隊達の軍歌演習の聾が丘を越えて北風に送られてかすかに流れて来る。斯の如く寒さもおし切って、猛訓練を続け北遽の守をかためるのだ。斯く有ってこそ大東亜戦争も大勝利を挙げる事が出来得るのだ。
北遽は大丈夫だ。
十月二十四日。手も足も切れてしまいさうだ。緩陽の町を流れるスエズ運河もすっかり氷結してしまった。兵営の各煙窓からはペーチカの煙が真っ黒になって空を覆って居る。斯く如く寒さと戦ひつつ黙々として北遽の護りは続けられて行くのだ。十月でこの寒さだもの来るべき一月二月の寒さが思ひやられる。
十月廿七日。戦友斉藤源治郎君にはどうにも弱った。中隊で一番の大イビキかきだ。床の中に横になると始まる。
どうにもうるさくてねむられない。相手初年兵昼間うんと働くから、大得意になって鼻をならしたら寝てしまう。
こっちは中々眠り付けない。俺も初年兵の時は、寝るとねむるとどっちが早いかと言う位ひだったが、最近は駄目だ。今夜も十一時半までねむる事が出来ない。あまり考へる為か、それとも運動不足か、何にしても戦友がうらやましい。
十月廿八日。本日も部隊衛兵早朝からものすごき風。手も足も動かない防寒具は渡らないし、防寒補祥袴下のみ。
夕刻前後より凰は止む。夜九時遠か国境の彼方から真っ赤な月が揚がる。一時二時御国の為であればとて、こんな異国の山の仲で寒風に吹かれたら、夜通し警成せようとは、つめたい枯れ草をふみ出たら色々の事を連想す。
足もとからねずみが飛び出してもハッとして銃を握りなほす。シーンとした真夜中、遠い彼方の山からかすかに、オオカミのうなりさえきこえて来る。国境より僅か○里。
其の任務は重大だ。三時四時益々寒気がしみる。今朝五時最低気温零下二十度。これが十月の気候とは、十月三十一日。本日より異動の為のコソボウ開始られる。
多忙なり。
十一月一日。本日日曜なれど、平日常通り服務前日通りの仕事が続く。朝から一日中綿の如き雪が降り続く風はなく至って静かだ、こう静かな雪はあまり寒さを感じない。故郷では秋の山仕事も終わらない事であらうがペーチカに寄り掛かって大陸の雪を眺め乍らさまざまな事を連想内地の正月思ひ出される。
我々の待望の満期もあまり遠くなく実現されそうだ。年末かそれとも来年か。とに角来る日も来る日もペーチカを囲んで満期話に花を咲かせて居る。いやデマではない。火のない所から煙は出ないとか確かに間近にせまった事は確実だ。先ず身体を大切に事故なく今二・三ケ月過ぎて呉れる様神に祈って居る。
十一月三日。良い気持ちで内地の夢路をたどって居ると、突如非常呼集冬の三時一番良く寝られる時だ。でも仕方ない。電灯をつけるな。早くやれ。何と大あわて。十分後に全員営庭に集合。何にしても寒い週番司官の状況を達するの聾もさみしく敵は00方面にあり我がセ隊は戦車隊主力の○○方面進出を容易ならしむる為、先迅隊として○○高地の敵状模策の任務を以て只今より○○高地に向ひ前進す。第一第二小隊より前へ二・三日前に降った雪は未だ消え去らず其のままだ。幾日の月か知らないが今揚がったばかりだ。雪の表面は硬く氷ってピカピカ光って居る。いくら力を入れて歩いても雪の中へ足が飛込む様な心配はない。それ所ではない。そっちでもこっちでも銃を肩にしたまま、すてんすてんころんで居る。
月あかりに照らされてキュキュと雪をふみながら、進歩行軍何でも雪中行軍は歩きにくくてつかれる。丁度夜明け方00高地到着状況止め。全員丘の上に立ちて遥か皇居に向ひ明治節を祝して捧げ銃戦勝祈願武運長久にていつまでも御奉公を続ける事を祈る。十分間休憩後又兵営に向かい前進を開始す。すっかり夜は明けた。帰りは行軍歌だ。戦車隊の唄。愛馬進軍歌も勇ましく暁の大陸図境の空にこだまして行く。はく息も真っ白だ。斯くありてこそどんな固苦にも打ち勝つ事が出来得るのだ。ああ意味有る昭和十七年の明治節よ。
十一月七日。本日第八師団長の巡視並に訓示行はる全員九時営庭集合物すごき北風を受けて一時間行はる。手も足も取れてしまひそうだ。自分の鉢の様な気がしない。
別に仕事の上に置いてはこれと言って苦痛は感じないが、寒い程つらいものはない。愈々午後より輸送開始せられる寒さはつのるばかり。
十一月八日。愈々明日は出発だ。本日より本格的に自動車クリ一等に依り、早朝より行ける。連日寒い風の中で、活躍す。本日はクリー監視でも営地より緩陽駅の間を往復す。手や足は少しの間も暖まった事はない。朝から生がない。午後七時。仕事を終わり明日出発の準備をなす。
十一月九日。(ハアハア又、雪空夜風の寒さ)朝四時起床五時出発。どんよりと曇った寒き朝なり。星明かりに照らされて、屯営出発。緩陽駅に同じ乗車行軍。午前中掛かって荷物車輌の搭横終わる色々注意が有った上午後三時半目的地牡丹江に向ひ列車は発車す。一つの貨車の中に五十名。乗車足を延ばす事すら出来ない。寒さは寒し火の気とては更になし。黙々として列車は進む。左隣りに現役の三年兵の兵長さんが居て、右隣りには召集三回目だと言ふ三十四五にもならうと思う古参一等兵が座って居る。故郷の話に花を咲かせたら、暗いランプの下でヒゲづらが笑って居る。寒くてねむる事さえ出来ない夜中の一時三十分。目的地牡丹江に到着。全員協力の下朝六時までに却下を終わる。昨日は中食夕食共朝、部隊から持って来た飯金のひやめし鉢のひえるのは当たり前の事だ。何ともまあ色々の思ひをする事は、自分自ら感心する。
十一月十日。眼下に北満随一の都市牡丹江の町を見下ろしたら、おちつくべき新部隊に向ひ乗車行軍九時目的地部隊に到着す。相当大きな今までの部隊より余程勝って居る。久方振りに暖かい朝食にありつき、やれつかれを休めんとすれば、本日は停車場衛兵との事。ペチャンさっそく又自動車で駅に至り荷物の監視に任ず。でも今日は幸ひ今までになく暖かい。朝から異国の列車を眺めつつ立喝す。部隊の全員は駅と屯営間の荷物の輸送其の間、八キロ夕方まで掛かるも荷物は半分位残る。愈々夜も又寝ずの番だ。駅前に畷営兵所をこしらへかんかん火を起こして夜を明かす。銃を片手にホームの上をこつこつと歩きながら警戒す。今夜で三晩寝られないのも今少しだ。
愈々最後の御奉公と思えばなんでもない。
十一月十一日。九時三十分。営兵交代。自動車にて部隊に引き揚げ兵器手入れ身の廻りを片付けて十二時より夕方五時まで就寝休養何も知らずに休む。夕方暖かいまんまにありつき、入浴にて久方振りのアカを流す。やうやく自分の体にもどった様な気がする。少し落ち着くと又満期話かテンホ。
十一月十二日。昨日に引き続き本日も晴天にて風もなく暖かい。入時起床。飛行機の爆音にて限を覚ます。お隣の飛行部隊で毎日昼夜をいとはぬ猛訓練だ。一晩中ぐっすり休むと連日のつかれは一時に去る。やはり若き時の力でなくては駄目だ。九時参十分。清田見習士官引率の下に戦場掃除の目的を以てカイロ駅に整理に行く。十一時仕事を終わり牡丹江の町を見物に行く。流石北満第一の都会だけあって、相当なものだ。静岡なんか問題ではない。日本人満人鮮人ロシア人、あらゆる毛色の変わった人種が住んで居る。四方山にいだかれて見渡す限りの平野の中にある都会だ。こんな風光を見るのも軍人なればこそだ。四十キロの速度で帰営午後部品庫の使役七時点呼。七時三十分消灯。ペーチカの側で上着をぬいで寝室にあぐらをかいて、補充兵揃って又満期話この上もなく、たるんで居る。全く軍隊の神様だ。家へ帰ってもこんな生活を続けて見たい。横のものも縦にもしない。軍隊は苦しい時は此の世の生き地獄。又のんびりとして居る時等一寸誰にも想像がつかない。全く色々の思いをして見る。何にしても愈々待望の満期も目前に迫って来た事は事実だ。
十一月十三日。朝五時起床。冬の五時では未だ陪い。又今朝の暖かい事よ。なまぬるい風が吹いてむしろ気持ちが悪い。起床と同時に大陸の澄み切った空気を吸う傍ら、動車にて海路駅に後発者の荷物の運搬に行く陽気が暖かい為か知らないが、今までの宝清や緩陽に比べると全く凌ぎ良い。防寒衣服もこれではなげだしたくなってしまう。やはり北満とは言へ大都会の発展する様な場所は何か良い所があるに違いない。夜の一時良い気持ちで寝て居ると、東京出身の高橋幸太郎が、おいおいと言っておこす。見ると食缶に一ぱい炊事からシルコを持って来て居て、食えと言うのだ。皆静かにねむって居る。関東の三年兵ばかり五・六人夜中におき上がって思う存分戴く。どうにも始末がつかなく、はては飯金の中に入れて明日の御楽しみに、皆ねて居るのに福神袴下のままペーチカに寄り掛かって又一プク満期話か。お陰で腹が張って、仲々ねむり付く事が出来ず始末に困る。アーア。
十一月十四日。夜九時消灯(朝七時起床。何と丸々寝ると十時間ねむれる。初年兵当時は夜中に目を覚ます様な事は全くなかったが、最近では夜中に二回ずつも便所に行く。あまりたるんで居る為だろう。
十一月十五日。本日日曜日。待望の外出が許可され、戦友小塩音二郎君と二人で北満大都市牡丹江市に外出す。
相当な寒さだ。町の銀座通りに先ず落ち着く。三里の道を歩いて来て、十一時到着。でも丁度東京に来た様な気分だ。さて映画か、一ぱいのむか。まさかピーヤへ行く様な度胸はなし。とにかく喫茶で一ぱいやる事に決まった。ビールか酒かウイスキーか何でもある。酒一本七十銭。ビール七十銭。幾らでも買う。三年兵四人で有り金全部はたいてしまった。何と江戸っ子は気前が良い事よ。
長い間移動とか何かで忙しくて外出しない為、相当金もあったが一人残らず全部スッカラカンだ。まあ、最後の外出かもしれない。仕様がない。さて、明日から煙草を買う金さえない始末。まあ何とかなる。俺一人ではない。
いっこうに平気だ。まあいい思い出さ。唯、待つは一日も早く何か良い命令でも出れば良いとそれのみ。
十一月十八日。愈々待望の○○が大体見当がつく。夕刻より中隊長人事係本部集合。十一月末かそれとも十二月始めか確定した事は事実だ。ペーチカを囲んで全員大喜び。夜寝ても仲々寝付く事が出来ない。途中道中の事から故郷の事から次から次と連想して、限は益々さえるばかり。どうやら俺一人でもなささうだ。とうとう十一時まで十二時より不寝晩。ほとんどねむらずだ。
十一月十九日。朝食が終わるとすぐ人事係が、三年兵集合。早速行って見ると、御前達は長い間御苦労だった。
愈々近い内に内地へかえるから体を大切に、身の回りを整理する様に、又職業の方面も心配して呉れるとの事。
大喜び、やはり来るべき時が来たのだ。余す所一ヶ月とはない。此の世の春だ。
十一月二十日。満期話益々持ち上がり、夜は満期予行。
十二月七日。何事もなく平々凡々として十五日間夢の如く過ぎ、満期話後も熱がさめて来た。やはり来年か。軍隊生活も無事三ヶ年過ぎんとして居る。戦友達とも多数つき合って見た。「事故」昔の人が良く言った。「事故」の主なるものは大体酒と女だ。今日も中隊の或る兵が酒の為、ふとした事から重営倉七日を食った。軍隊は一寸した事から罰になる。地方人には想像がつかない。良い見せしめとなる。益々緊張して無事任務を果さん事を祈って居る。
十二月八日。今日ぞ大東亜戦争一周年記念日だ。各部隊とも非常呼集だ。燐の飛行隊等夜通し此の寒さに猛訓練を続けて居る。大東亜戦争の大勝利の裏には漸く如き寒さの中、夜も日も分かたぬ苦労を重ねて居るのだ。思えば昨年の今頃は習志野に於て動員を受けものすごく張り切って居たのを思ひ出す。それがつい昨日の様な気がする。光陰矢の如しとは良く言ったものだ。午前九時半より下士に於いて詔書奉読式挙行され、部隊長の訓示あり時局の益々重大なるを感ずる。
十二月十日。夜間演習午後五時半。営庭集合。零下二十五度の極寒の中、陣中勤務。手も足も取れてしまいさうだ。折からの月に照らされ、真っ白な息が見えるばかりだ。防寒服のフチは真っ白に氷ってしまった。眼下に大牡丹江市を見下しつつ、行はる。銃も剣も真っ白に氷って歌の如く氷の花だ。でも我々が苦労するばかりではない。隣の飛行隊はどうだ。此の真夜中の零下の寒さの中で上になり下になり物すごき戦斗訓練が続けられて居るではないか。タン照燈は十教本で其の飛行機を照らし出して居る。さながら実戦其のものだ。斯くして北邁の護りは益々固められて行くのだ。
十二月十三日。本日外出が許可され、戦友小塩君と牡丹江に遊びに行く。興隆から牡丹江の町まで一時間半でも外出となると仲々勢いが良い。各デパート契茶店等ひやかして一日中楽しく遊び、午後五時部隊に帰る。これが最後の外出となるか?。後待つは○○○。
十二月十四日。なんと興隆の水の悪いのは閉口する。うっかり生水の一口も呑んだ事なら大変だ。忽ちオケストーだ。生水でうがひする事すら禁じられて居る。それにやれ断水とか、やれ氷結とかで顔さえ満足に洗う事は出来ず、最近では入浴以外ほんとに五日に一度位洗う位のものだ。
夜の十一時。どうしても寝付く事が出来ない。あせればあせる程尚更の事だ。次から次と色々の事が連想され、限は益々さえるばかり。誰か夜中にペーチカの前で福神袴下のまま一服やって居る。誰かと思って叫んで見ると、戦友の小塩君だ。宮下お前まだねむらないのか。俺もどうしてもねむり付く事が出来ないから、今起きて一服やって居る所だと言う。ヂャア俺も一服と又起き上がって二人して思う存分話をする。十二時頃やうやく就寝。さあ明け方ねむくってたまらない。しみじみと起床ラッパがうらめしい。
十二月二十二日。本日営兵勤務。機甲軍指令。吉田眞中将当隊巡視あるとの事。表門歩哨として服務其の任務重大。寒さ激し、防寒帽のタレを上げる防寒手袋着用せず、零下二十度の中に立晴眼前を通過挙手答礼第一装の捧げ銃。只一言御苦労。でもこれ以上の名挙あらんや。流石名に聴える名将五十近き年頃なれど防寒服装もりりしく五尺八寸もあらうと思はれる。人格者だ。手も耳も寒さの為、感覚さえ無い。左手の人差し指は、軽度の凍傷に掛かった。夜間は益々寒さに寒さが加わり一回立僻すると防寒帽のフチは真っ白に吐く息に依って氷ってしまう。
それ所ではない。鼻の穴の中まで氷ってくすぐったくて仕方ない。限の捷毛から眉毛まで氷る。眼鏡等勿論駄目だ。ストーブにあたっても顔ばかりあたたまって、足の方からいくらでも冷えて来る。幸ひなるかな、どんな寒さにも打ち勝つ所の出来得る身体を持ったなればこそ。
十二月三十一日。今月二十三日より行われた前期検閲も無事昨日を以て終わり、午前中兵器手入内ム班車廠等の清掃等をなし。午後休務。ああ愈々年の暮なり。思えば昨年の今日は勇躍征途に上り、朝鮮にて車内の年の暮れをやった事を思い出す。過ぎて見れば一年位は長い様な短いものだ。でもあまりにも変化のあった年よ。無事今年も終わりをつげんとす。輝かしき人生の一貫は飾られて。昭和十七年を無事御奉公出来た事を祝福して、戦友揃って牡丹江の地光隆よ兵舎にて、戦友揃って乾杯、ああ誠に意義深き昭和十七年。
大東亜戦下の年の暮れよ。
昭和十八年
紀元二千六百三年一月一日。本年も軍隊にて目出度き元旦を迎う。昨年の元旦は汽車の中、今年は北満大都市牡丹江で渡満以来丸一年。午前三時半起床。車廠当番に七時半まで服す。皇居及故郷に向かい造拝す。四十度の寒さの中、各中隊共非常呼集隣の飛行隊では夜も寝ずに猛訓練だ。見よ昭和十八年元旦を迎えるに嘗ってこの活躍を。七時半勤務を終る。午前九時半。全員営庭集合遠か皇居に向かい捧げ銃。元旦にのぞみ部隊長の訓示。折からの寒風に聾は流れて、益々重大なる年を迎えた事を論ずと共に、戦車部隊としての本分を如何なく発揮せん事を望む。大半は外出するも、小生は営庭にて故郷の正月を偲びつつペーチカを囲んで暮す層は一ぱい祝酒全員面白く元旦を送る。内地の正月なら十二時まで位は遊んで居る所で有るが流石軍隊だ。夜の九時三十分消灯。誰一人口を開く人とてない。そして楽しき夢路をたどって居るので有る。ああ昭和十八年の初夢はさて何如。
一月五日。軍隊でもやはり正月三日間は朝は雑煮だ。軍隊に来て三回目の正月始めてしみじみと軍隊の正月を味わう事が出来た。五日間連続休養。あまり休むと身体はだるくなるし、腹の調子は悪くなるし、夜は良くねむれないし駄目だ。やはり我々は麦飯を食ってうんとしぼられなければ駄目だ。愈、最後の御奉公をする年だ。ああ喜ばしき新年よ。
一月六日。愈々本日より又演習だ。正月気分を一掃して、本日は朝から車輌整備、午後五時より夜間演習無燈火行
進不整地行進、零下四十度。一寸先も見えない。北満大陸氷のコウリャン畑やら道もない所を自動車行軍手や足はつめたいし、前のガラスからジーッとヤミの中をすかして、行進。何の雑音もなく只エンヂンのひびきがやみの中にきこえるのみ。辛が落ちる兵隊が物も言はず黒山の様にたかっておし揚げる。口をきくガスが高い何と教官のうるさい事よ。斯の如き苦しき訓練を続けてこそ一朝有事の際、電撃作戦も成功するのだ。無事地夜の○○時部隊到着。久方振りにぐっすりと良くねむれた。
一月七日。午前中車輌整備。午後修理車に戻り屋外修理所開設の訓練。四時より愈々寒ゲイコ銃叙術挑んだ零下四十度の中シャリ二枚で猛烈ににやる。いやでも気合を掛けてやらなければ身体中氷ってしまう。ほんとうにこれが寒ゲイコと言うのだらう。一寸内地軍隊の寒ゲイコの銃剣術は、くらべにならない。体中汗びっしょりになるまで、やられる。でも終わった後の気持ちの良い事よ。
今更ながら自分の身体の健全なるに驚く。
一月八日。朝四時気持ち良く夢路をたどって居ると、突然非常呼集。いやでもおうでも起き上がらなくてはならない。五分後全員武装を備え、営庭集合物すごき寒さなり。牡丹江に同じ前進す。まだ四時や五時では真っ暗だ。
牡丹江河の氷上渡河だ。二百米もある河を渡って行く。
銃をかついだまま、あっちでもこっちでもすてんすてんころんで居る。何にしても氷の上では思う様にならない。
渡河演習終わり。帰りは駆け足だ。何と防寒具の重い事よ。気ばかりあせって足は前に出ないやうやく部隊に着いた時は、全身汗びっしょりだ。最近の又しぼられる事は、思えば今日は陸軍始めだった。朝食後一日中休養。
最後の手紙
前略色々と御世話になりました。厚く御礼申し上げます。
愈々大任を帯びて、来る二十九日出発致します。時局の先端を行く○○部隊、南へ。今後便り出来ず、御無音のみ重ねる事と思いますが、何分留守中頼みます。
○○に敵前上陸の予定。海上操行部隊として。面会出来ず。来甲無用元気旺盛皆様に宜敷く。取り急ぎ乱筆にてさらば
九月二十七日
兄上様
秀雄より |