1928年(昭和3年)に建築され、当時甲斐絹の織物の町として栄えた富士吉田市で接待をする高級料亭として使用されていた。1943年に廃業し、その後1945年から現在の施主の祖父が初代院長として角田医院(1986年移転)を開業し、地元の診療を行う場となった。
外観は神社仏閣のような造りであり、雨戸などにも彫刻が施され、通りから除ける部分だけでもその姿は異彩を放つ。延べ床面積340平方メートル、二階部分は料亭当時の雰囲気を残しており、障子や襖の寄せ木細工風の松風菱などの細工に目が奪われる。天井は二重号天井で漆で塗られた格子状から古い照明が下がっている。また、立派なイチイの木の床柱があり、正面には中銀から送られた中村不折の大きな書が目を引く。部屋の反対側には忠臣蔵の一場面、撞木町で遊びほうける内蔵助のシーンが再現された彫刻がある。
一階部分は診療所と使われていたが、大きなケヤキの一枚板を使用した玄関は往年の風情を忍ばせる。また玄関入り口の恋の彫刻など立体的な造形は心奪われるほど見事。ちなみにライオン宰相として有名な濱口雄幸首相がその場で書いたといわれる書もある。
とにかく、芸術文化に乏しい富士吉田の中でも異彩を放つ物件であることに間違いはない。 |
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