ぴったり一致します。特に宝永火口の丸く雪のない部分も良く一致しています。つまり「東海道江尻田子の浦略圖」は沼津市西浦付近から描いたと結論付けても良いと思います。しかし、ここでは考察をもう少し進め
て近景の塩田は本当に田子の浦なのかと疑ってみたいと思います。つまり「東海道江尻田子の浦略圖」の定説である「田子の浦の塩田のやつし絵なのか?」を
疑ってみたいと思います。
そこで私の考察シリーズで北斎は良く航路を活用するという仮説を採用し、沼津市西浦付近から海路で沼津港に向かうシミュレーションを行いました。すると構
図の通りの風景を維持するように注意しながら出航すると、ほどなくして愛鷹山が富士山の稜線を越えてしまい北斎のスケッチ通りではなくなります。
しかし、ここで「凱風快晴」の検証で登場した「快晴の不二」が西浦近くの淡島付近の視点であることを考慮すると北斎は沼津付近で船を利用したと思えて仕方がありません。
←「凱風快晴」のもとになったスケッチと言われている「快晴の不二」(現在淡島付近と推察)。
ここで後に展開する新説の一部を登場させたいと思います。
それは「東海道江尻田子の浦略圖」の中の雲のような霞は通説の「塩田の煙」ではなく、場面変化を表す「すやり霞」ではないのか?ということです。 |
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「東海道江尻田子の浦略圖」と「文邉の不二」をセットで考えるから「やつし絵」という理解になるのですが、ここは素直に「すやり霞」を利用した場面転換、さらに言及すると西浦付近から船で沼津に向かっていく光景の時間経過として見ると謎が解けると思います。
つまり、近景(中景)は沼津市の塩場であると思われます。
沼津市のホームページを見ますと、狩野川近くに「塩場」と呼ばれる地名があり、ここに塩田の浜が広がっていたことが記されています。そして以上を踏まえ
「東海道江尻田子の浦略圖」と「文邉の不二」を再び眺めてみると海岸の雰囲気が沼津に近いことが良くわかります。特に「文邉の不二」に至っては塩田の向こ
うに河口と松原が見えるような気がします。また「快晴の不二」で描かれている遠方の海岸線も沼津浜のように見えます。
左の地図は明治期の古地図ですが、江戸時代は狩野川河口域まで海がありました。
ここでいったん総括します。 「東海道江尻田子の浦略圖」はタイトルと描いた場所が一致しないという結果になりました。定説の田子の浦沖は沼津沖で富士山は沼津市西浦付近から見た富士山です。あくまで北斎の画がいた視点という観点から検証すると以上のように結論付けるしかないと思います。
また、画の解釈は古い和歌のやつし絵というより、そのイメージがあったかもしれないが作品として完成させた風景画として素直に見るほうが良いと思われます。
北斎の近景と遠景には共通点があります。「甲州井澤暁」では近景に石和の風景、遠景には富士宮から見た富士山。「甲州石班澤」では近景に鰍沢の風景、遠景は富士市から見た富士山が真ん中に「すやり霞」をはさんで描いてあります(別項検証)。 |
甲州井澤暁 |
甲州石班澤 |
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以上の検証を新説とすると大きな問題が生じます。それは「なぜ、タイトルと描いた場所が違うのか?」という当たり前の疑問です。
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しかし、大きなヒントがあります。それは「凱風快晴」が田子の浦〜江尻の航路で描かれたかもしれないという仮定です。つまり、「凱風快晴」こそが「東海道江尻田子の浦略圖」なのではないでしょうか?そうなると可能性は4つあります。
1.北斎は「凱風快晴」と「東海道江尻田子の浦略圖」のスケッチを混同して間違えた。あるいは順番が狂った。
2.北斎は田子の浦を沼津沖だと思い込んでいた。
3.北斎は「凱風快晴」と「東海道江尻田子の浦略圖」の場所を知っていてワザとタイトルを付けた。謎かけをした。
4.「東海道江尻田子の浦略圖」の遠景は沼津市西浦だが近景は田子の浦の塩田風景。
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「1」の場合は以下の仮説が考えられます。
北斎は船旅の途中でスケッチを精力的に行い、伊豆巡り〜沼津〜田子の浦〜江尻を同じ工程で巡ったためスケッチを混同し、「凱風快晴」と「東海道江尻田子の浦略圖」の順番がズレて行ったかもしれません。謎の多い北斎のスケッチ旅ですが、もしかすると工程のヒントになるかもしれません。
「2」についての考察を記すと、江戸時代より前のいわゆる「田子の浦」は興津〜由比〜蒲原あたりの駿河湾西部を指し、現在の田子の浦漁港と場所が違います。
←北斎と同時代の国郡全図(1828,1837年)。田子の浦は富士川の西に描かれている。ただし、富士川の東に田子の浦を描いてある資料もある。
北斎は船に乗りながら「田子の浦」の場所を勘違いしたのかもしれません。
「3」の場合は定説通り、「やつし絵」を念頭に田子の浦に似た風景をはめ込んだということです。または「凱風快晴」のヒントを他の画に託したのかもしれません。いずれにしても「ワザとタイトルを付けた」のならその真意は想像するしかありません。
「4」の場合は「2」とも関連しますが、北斎は実際の風景と異なる風景を描く場合にタイトルを違える(地名を書かない)という共通点もあります。「凱風快晴」と「山下白雨」
は一部を別の場所のスケッチの部品にしたり、「甲州井澤暁」と「甲州石班澤」では遠景と近景が違う場所のため漢字を違えてタイトルにしています。そう考え
ると「東海道江尻田子の浦略圖」も遠景と近景が同じ場所では無いため実際の地名にしなかったのでは?と思えてなりません。今風に言えば小説や漫画の中で
「T市」と言ったり「ネオ東京」と言ったりする感覚と似ているような気がします。
ここにきて描いた場所は特定できたのにタイトルの謎で行き詰ってしまいました。しかし、描いた視点を特定するという作業はとても大切で、次の謎解きのヒントになります。 |
よってここからが本題になります
前述のタイトルの検証で触れたように、理系人間の北斎が間違ったり勘違いすることは考えられません。きっと論理的な展開が隠されているはずです。
ここで今一度通説を整理しておきます。北斎は古典和歌の「やつし絵」として「東海道江尻田子の浦略圖」を描いており、視点場所は「現在の田子の浦沖」、つまり吉原宿の沖ということになっています。
しかし考察の結果、北斎の視点は沼津対岸付近で塩田は沼津付近の「塩場」が想定できます。
と…、ここでタイトルの謎が浮上するわけです。
コラム:現在の揚げ浜塩田(写真は能登珠洲)との比較 |
海水を浜に撒き天日で塩分濃度を上げる 後方に引桶も見える |
天日干しで濃くなった海水を 煮詰める窯小屋 |
実際に塩水を窯小屋内で煮詰める 実際に珠洲で見学できます |
点在する窯小屋の周りにある小さな構造物は塩分の濃くなった砂を海水でろ過する垂船か海水を溜めておく引桶 |
それからしばらくの間、以上の謎が解けず「東海道江尻田子の浦略圖」の視点も不安になっていたある日、「凱風快晴」の視点が富士川〜蒲原沖であることが確認でき謎の一端が見えてきました。つまり、北斎は江戸時代でいう「田子の浦」を船で移動しているのです。ようするに興津〜由比の浜で行われていた塩田を見ているはずなのです。
私は広く広まっている定説の中で述べられていた「現在の田子の浦の塩田風景」という言葉に疑念を持っていたことに気づきました。私の塩田イメージは由比であり、昔の田子の浦、つまり駿河湾西部が古典和歌の世界でもあるのです。
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由比の宿(東海道広重美術館展示物より) |
ここで話を脱線させますが、「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に
雪は降りける」という歌の意味は、作者が西(京)から旅をしてきて薩堆峠(さった峠)を超えた(船でと言われている)ときに見えた駿河湾と雄大な富士山を詠んだと想像できるし、「田子の浦にかすみのかく見ゆる哉もしほの煙立やそふらん」という歌は由比の塩の大生産地を拠点にした塩経済を想像させ、その塩は戦国時代において敵国である甲斐(山梨)にまで運ばれた事実を思い出させます。
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田子の浦wikiへ |
さった峠から旧田子の浦(富士山の下の湾)を見る
画像の右側に愛鷹山、その下に現在の田子の浦(港)、対岸の富士山の下は蒲原、手前の山陰に由比 |
そしてもう一つ、富士山の形状が田子の浦から見たという定説も受け入れることができませんでした。何故なら現在の田子の浦から「東海道江尻田子の浦略圖」のような配置の富士山は見えないからです。
北斎は江戸時代の田子の浦の地理を認識していました。そして実際に船上から体験し風景を見ています。それなのに沼津対岸西浦から沼津に向かう風景を「東海道江尻田子の浦略圖」と名付けたのです。 |
どういうことでしょうか? いよいよここから新説の核心部になります。
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いきなりですが下の画を見てください。 |
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感の良い方はもう気づかれたと思いますが、上の画は左右を反転してあります。そして反転してあるこれらの画は田子の浦から見た富士山の風景に見えませんか?
むむ…、まさか…。
そうです、間違いありません…北斎は田子の浦の塩田風景を反転し、沼津沖の塩田風景で見立てを行ったのです。
この新説は「珍説」なのかもしれませんが、北斎は「甲州三坂水面」で「御坂峠から見た河口湖と富士山」の構図をそれと同じように見える勝山地域の視点を使って表現しています。この「甲州三坂水面」は画の視点が簡単だったため通説と違うと判別できました。つまり、北斎の視点を特定することは北斎研究をする上で非常に大切であるということです。一見すると大衆の思い描いている風景を描いているように思いますが、そこは葛飾北斎のことです。そんな一般的な画は描きません。
なかには「何でもかんでも北斎を神格化して理屈を付けるな」と思う方もいると思います。しかし私はこう断言します。それは、私が様々な事実を積み上げて北斎の視点を客観的に考察してきた結果、北斎は画の中に謎解きを入れ込むのが好きだと思わざるを得ないということです。そして、その謎の答えもヒントも本人は明らかにしていません(唯一タイトルがヒン
トかも?と思ってはいますが…)。
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葛飾北斎という人は自分の画を見た人が謎を謎と思わない姿が面白いと思うだけなんです |
それでは北斎の隠れた視点と推定される場所のGoogleEarthを見てみましょう。 |
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清水港沖から(友人が船を出してくれました) |
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いかがでしょうか?頭が混乱します。
「東海道江尻田子の浦略圖」を反転した風景に見えませんか?これならタイトル通りの画と言っても良いと思います。それから「文邉の不二」も反転しました
が、この画はそのまま反転せずに鑑賞しても良いと思います。特に反転しない「文邉の不二」の画の中の船が反転した「東海道江尻田子の浦略圖」の船と同じ向
きになる部分が面白いと感じます。富士山の雪の量からも(塩田の時期は4月下旬〜9月上旬)初春、漁をしているのは今も行っている「しらす漁」か? |
「文邉の不二」は沼津沖の風景をすやり霧で描いた、和歌「田子の浦にかすみ…」のやつし絵
「東海道江尻田子の浦略圖」は「文邉の不二」をもとに描いた旧田子の浦の反転見立て風景
「東海道江尻田子の浦略圖」は文字通り江尻〜田子の浦の船上から見た海路風景
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