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改めましてあけましておめでとうございます。
年をまたぎましたが上の坊日記(ブログ)から
浅間神社正史第四回
Sat.12.18.2010 浅間神社正史第四回 今回は第4回、五項目目について検証していきたいと思います。
式内社調査報告書によると、
第五にA(本社)に真貞社が祀られている他、その伝承史料が確たることなどが挙げられよう。 ついでにA(本社)が甲斐国一の宮たることも、「一の宮」と証する史料としても、Aに関連する末木村長昌寺所蔵大般若経の明応年中の奥書、同社所蔵弘治三年武田晴信条目が古く、他はこれに及ばず、これよりもB(河口)が甲斐国一の宮とみえず、Cは市川郷の一の宮であり、甲斐国一の宮でないこと明らかである。以上よりAを式内社として以下みて行きたい。
とあります。
浅間神社正史の中で著者は、河口に残るミハカのことや、甲斐国史の中の郡家川口にあり。という記事を使い反証している。
今回は近年発見された史実等がないので、浅間神社正史や他の文献、古絵図などで検証していきたいと思います。
簡単な解説をしますと、御墓(ミハカ)とは、読んで字のごとく 'おはか’のことで、三代実録にある貞観の噴火を鎮める為勅使によって、甲斐国ではじめて富士山鎮火の社を建て、祭り事をした擬大領伴真貞初代の祝(ハフリ)の お墓だと伝えられています。 ミハカは、いつの頃からか代々の河口浅間神社の宮司が管理し、登記上でも、ただの墓地ではなく特別に墳墓と記され、伴真貞の存在を臭わせています。また古文書から読み取ると、当時は広大な境内でその一角にあったそうですし、なぜか富士山や河口地区を一望できる特別な小高い場所に建てられています。 私見ですがミハカから、河口浅間神社本殿を介して富士山山頂がほぼ真っ正面になるのも不思議ですね。何かの結界でしょうか?
まず式内社調査報告書から、真貞社についてです。現在調査中なので、はっきりしたことは言えないのですが、明治36年浅間神社之景という河口浅間神社の図には、擬大領霊社が描かれていますし、ミハカといわれる初代祝のお墓といわれる墳墓も伝えられています。しかし、今のところこれに関わる根拠は見つけることが出来ません。 一方、現在の一宮にも伴真貞が祀られていますが、やはり根拠は見つけられず、お墓の存在も確認できていないのが現状です。
また、甲斐国史の中の郡家川口にあり。の記事について著者は、当時八代郡家が河口にあったのではないかとして、昭和30年頃枯れてしまった河口の大檜(当時国の天然記念物)跡に領主代々の屋敷があったとした上で、大檜は、七本杉同様、河口浅間神社創設された時期と等しい樹齢だったとし、郡家跡だとしています。 これは領主すなわち、初代祝擬大領伴真貞の屋敷であったとして、伴真貞の存在を肯定させていますが、物証が乏しく、立証の手がかりとしては押しが弱いですね。 一つ補足をすると河口の場合、擬の大領とされているので、大領とは違い支所的な郡家であったのではないかと思います。御坂山系を隔てて多くの八代郡の存在が確認されていますので、どうしても支所的な官舎が必要で、それが河口にあったのであろうと言う訳です。 やはり、本社の方も郡境、郡家については前々回にもお話しした通り、伴真貞の存在の肯定や、真貞社の由緒あるいは物証に関して不明瞭な点が多いので、どっこいどっこいでしょうか?
式内社調査報告書、ついでに云々 に関して河口浅間神社は、創設以来1606年の大火で、村の大部分と拝殿、本殿全焼によって、それ以前の古文書の焼失してしまいました。しかし、河口浅間神社参道の杉(樹齢850年程)から推測するのに鎌倉時代にはすでに神社境内のかたちが出来上がっていたとの想像は難しくないですから、御師の屋敷や神社に残る古文書さえ焼失しなければ、著者も立証に手間取らなかったでしょう。それこそ、これでもか!というぐらいの史料はあった筈です。 妙法寺記によれば、その後も本殿は燃えないまでも、村の大半を焼失する大火に数回は見舞われているので、村内で古文書の発見は絶望的、現に1600年以前の史料は数える程です。
総括すると、古文書が確実に残されている一の宮本社の方が、断然優位ですね。まさに報告書の通りです。 しかし、今回は両者とも立証の材料が少なく、本社に真貞社が祀られていることについては、河口同様何の根拠もないわけで、今後の展開や発見如何によっては、断然河口浅間神社の方が材料が多いのではないかと思います。 さらに、一の宮と残されている古文書の記載に関しては、裏を返せば河口浅間神社に関わる一の宮と書かれた古文書もあると言っているような物ですから、本社のそれより旧い年代の物が出てくれば、十分すぎる程の物証になるでしょう。 先ほども話したとおり、鎌倉時代にはすでに現在の参道は確立されています。その当時七本杉はやがて樹齢400年近くに育っていたはずですし、現在の神社境内より広く、その威厳は相当のものであったろうと思います。報告書に書かれている明応年中の末木村長昌寺所蔵大般若経は西暦で言うと、1492年からですからざっと見積もってもそれより250年〜300年後の古文書になるのです。焼失がなければ、裕に数百年前の古文書が残されていたでしょう、創設時の史料何かもあったのでしょうね。多分、、。
今後は、残された古文書の中から関係各所を洗い出し、実史の解明をしていきたいですね。 |
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