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富士山北口本宮って富士吉田でしょって皆さま

うっかりしてました、、。

久しぶりの投稿です、、、汗

あけましておめでとうございます。

浅間神社正史第三回目

浅間神社正史第二回目

上の坊(ブログ)から

ちょっと早いですが、、、

はじめまして!

 

2012年12月21日17時48分


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上の坊日記(ブログ)より





Sat.12.04.2010
浅間神社正史第二回
さて今回は第二、三項について検証していきたいと思います。


式内社調査報告書によると、

第二に考古学的にみて、このA(本社)付近條里制より特別地域、重要な地とみられていたこと、つまり国府に近い地とみられることより大社の存在の可能性大なることが挙げられる。

第三に「特選神名牒」の三代実録解釈の如く、一旦社を建てたが神意に叶わず改めて建立と見るのではなく、神意猶落ち着かず遣使改めてみて落ち着いたとみると、その郡家の南でよく、それ中尾正祝屋敷などと云われる郡家と見られる地の南とみてよいこと。

とされています。


現在本社は、式内社調査報告書の通り、国分寺跡あるいは国衙跡(国府)のもっとも近くにあり、律令制のもと官舎の近くで祭事を執り行っていたであろうとの推測も十分頷ける立地条件です。
確かに、はるばる御坂の峠を越えて河口浅間神社では、不便すぎますし、現代の様にマイクロバスに乗って、神官様ご一行様ブ〜ンてな訳にはいきませんしね。
ですから、第三項の様に国府の近くに改めて建立されたのが一宮という解釈が浮上し、またそれが論点になっています。その論争の要素は三つ。

1.八代郡に祀られた神社が式内社であるとする説。
2.直後に建替えられた神社が式内社であるとする説。
3.山梨郡に建てられた神社が式内社とする説。

筆者は著書の中で、三代実録の中の郡家の南に建立の記事や当時の郡の変遷史料を用いて反証している。

私も地図を眺めながら国衙や国分寺、一宮町中尾の位置関係を確認しつつ記事を読み始めたところ、
やはり筆者の反証の通り説明不足ではないかな?と感じました。
まず本社の位置が、国衙や国分寺より離れた(最大で五キロほど)畑の真ん中にあること、また正祝屋敷は当時山梨郡であったということ、当時の八代郡家とされている地より視るとむしろ北東、もしくは北の方角にあることで、しかも全く富士山が見える場所ではないのです。
さらに、「特選神名牒」の三代実録解釈の如く、一旦社を建てたが神意に叶わず改めて建立と見るのではなく、神意猶落ち着かず遣使改めてみて落ち着いたとみる というのも、いまいち納得できません。仮に報告書の通りであっても、最初に建てた官社はどうなっちゃったの?なんて疑問を残しますよね。

確かに第二項の通り、一国の要衝にもっとも近く祭殿としては抜群の立地条件です。
これを言われては他の論社は手も足もでませんね。
しかし第三項の報告はどうでしょう?

本社の御由緒では

第十一代 垂仁天皇八年(約2千年前)正月始めて神山の麓にお祀りされた。今ここを山宮神社と称して摂社となっている。第五十六代 清和天皇の貞観7年富士山大噴火の翌年(865年)12月9日、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を現在地にお遷ししてお祀りされている。甲斐国一宮であって延喜の制に於ける明神大社である。明治四年五月十四日国幣中社に列格。

とあるとおり木花開耶姫命が変遷されています。

三代実録には、富士山が噴火し甲斐国側の祀りの為、まず八代郡家南に最初の浅間神社が建てられ、噴火が鎮まらないので、約二週間後に山梨郡に八代郡と同等の社を建てた。という記事では十分検証する余地が残っているのではないかと思います。
多くの文献で現在の本社地は当時山梨郡であったとされていますし、明らかに山梨郡に八代郡と同等の社を建てた。と三代実録には書かれているからです。
また、私が考える本社の見解は、二度目にあたる社、つまり山梨郡の社であるとしているのではないかと思います。なので、前回書いた第一項の報告書の通り本社(一宮浅間神社)鎮座地が式制定当時山梨郡たることを証する史料もない。として八代郡であった可能性を残しつつ、祝屋敷などと云われる郡家と見られる地の南と付け加え、二度目に建てられた(変遷)社こそ式内社としているのではないでしょうか?

仮に八代郡に建てられた第一社が河口浅間神社であるとすれば、山梨郡に建てられた神社が第二社である事は間違いないです。しかし神意にかなわず改めて建てた第二社が一宮であるとしたら、延喜式神名帳には八代郡にある社こそが名神大と書かれている社はどこの社になるのでしょうか?また、本社が八代郡に建てられた社であれば、山梨郡に建てられた第二社はどこにあるのでしょうか?
本社からの山梨郡の社についての見解は見つけられませんでした。

わずか十数日で二番目の官社の建造も難しいでしょう、また、わずか十数日間噴火が静まるかどうかを見守る事が出来なかったのか?この再建の短期間に何があったかは想像もできませんが、利便性を考えて、ある神社を変遷するのが一番手っ取り早い方法だったのかもしれませんね。
だとしたら、
甲斐国に始めてできた八代郡の社が河口浅間神社で、その後の山梨郡御神社が本社である。
なんて、仮想は成り立ちませんか?
ここで争点のおさらいです。

1.八代郡に祀られた神社が式内社であるとする説。
2.直後に建替えられた神社が式内社であるとする説。
3.山梨郡に建てられた神社が式内社とする説。

河口浅間神社は1.を、本社(一宮浅間神社)は、2.3を主張しているのです。


貞観の噴火から数十年後の延喜年間に、勅使によって手植えさられた河口浅間神社境内の七本杉は何のためだったのでしょうか?
私には神力のなかった神社の境内に勅使がわざわざ出向き、手植えをするとは思えません。