富士五湖TV 凱風快晴(冨嶽三十六景)の解説
葛飾北斎の富士山の場所を特定する謎解き
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この記事の葛飾北斎考察がNHK歴史探偵NHK歴史秘話ヒストリアにて放送されました
また、同時に神奈川沖浪裏のアニメーション説の実験もしてもらいました。
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  「凱風快晴」の立体模型を考察した位置情報を用い、現在の地形データで再現しました。
 
7色にゆっくり光ります

雷が激しく光ります

USBにてPC動作します
  制作過程等、詳細はこちらから
凱風快晴 冨嶽三十六景(1831〜1833)より
 「凱風快晴」は富士山を描いた葛飾北斎の冨嶽三十六景の中でも「神奈川沖浪裏」・「山下白雨」とならび人気の高い作品で三役の一つとされており、通称「赤富士」と呼ばれています。「凱風」とは南から柔らかく吹く風を意味しており、このことから夏の富士山を描いたものと認知されています。

  しかし、このように有名な作品であるにもかかわらず、この浮世絵の視点は不明であるとされており、「三ツ峠周辺・富士吉田市・静岡沼津周辺」と様々な説が あります。まず、山梨県側の三ツ峠周辺や富士吉田市からの視点ではないかとする説の根拠は「赤富士」と呼ばれる自然現象やそこから見える山頂の平らな形に由来してい ます。

 「赤富士」という自然現象は近年のカメラマンが富士山を撮影する際に夏〜秋の早朝、山梨側から見た富士山の東肌へ朝日が当たり、富士山が赤く染まる現象を言い、その有名な撮影スポットとして富士吉田市の滝沢林道などが挙げられます。また、「凱風快晴」の画に見られる 「鱗雲」が秋をイメージさせ、赤富士の季節と重なることも「凱風快晴」は山梨側という説を補完しています。
 一方で、個人的に分かる範囲で江戸時代の文献を紐解いてみても「赤富士」という記述はごく稀にしか散見されず、特に昔の人は富士山が赤く染まる現象は注目されて いなかったのではないかと思われます。ましてや現在のように情報もない時代に「赤富士」という現象に偶然居合わせるのも難しいでしょう。
 
山梨県富士吉田市滝沢林道より赤富士(9月)
(画像は故渡辺誠司様)

「凱風快晴」の詳細はwikiで


  では何故、「凱風快晴」は赤色なのか?という疑問があると思いますが、「凱風快晴」の初期摺版の富士山はそんなに赤くありません。こげ茶色という表現が近 いかもしれません。その後、版を重ねるごとに富士山は赤みを増し、ふもとの木々は青から緑へと変化していきます。もちろん異論があるでしょうが、「凱風快 晴」はそれぞれ異なる版も多いのも事実です。しかし、ここで大切なことは「心象で視点を判断してはいけない」ということで、あくまでも論理的に考えること だと思います。

 次に静岡側から描いたとされる根拠ですが、同じ北斎の「冨嶽百景初編(1834年)」の中に「快晴の不二」という画があり、これが「凱風快晴」の元に なったという説があります。この画の富士山は斜面についた雪の量が「凱風快晴」より多く、手前に愛鷹山を従えています。また、下に目を移せば何艘かの船が 海に浮かんでいる様子が見えます。このことから、この画の視点は沼津千本松沖であると思われます。現在の私の検証では沼津市内浦に浮かぶ淡島から描いたと 考えています(さらに要検証必要)。

 さて、謎の多い本作品の視点ですが、私も最初は(地元愛から)三ツ峠周辺から忍野地区のどこかだろうと思いシミュレーションを重ねました。そして、違和感があるものの忍野地区の二十曲峠付近が最も山体の様子と残雪の具合が似ており、過去に考察を一度終えたのでした。
誰もが陥る間違った解釈例の考察過程
(忍野地区方向の北富士演習場内より、三ツ峠でも同じことが言える)
(2015年以前の考察)

コラム:山梨側の検証で生じた違和感とは
・描かれている白い雪形は山梨側で見たことが無い。特に三ツ峠から見た雪形は山頂左上から右下にかけて斜めに横切る雪形が印象的だが「凱風快晴」には描かれていない。白い部分を尾根筋だとしてもあり得ない。
・赤富士の自然現象は夏〜秋によく見られるが、その季節に山梨側から見た富士山には残雪がない。
・「凱風快晴」の赤い部分の日の当たり方が右からに見える。画の中の右とは山梨側からだと西に相当し、朝日と矛盾する。
コラム:凱風快晴は山梨県説が濃厚?
山梨県が配布している県の紙袋には「甲州三坂水面」の他「凱風快晴」も採用されている。また、顕著なのは山梨県管轄の陸運局が採用している図柄付き富士山ナンバープレートは「凱風快晴」である。
←これ
ちなみに静岡側は富士山と花柄
私自身は山梨県民であるので本説に確信すると若干裏切り者気分でもあるが事実は事実。
それでも「凱風快晴は静岡から見た富士山である」と言わざるを得ない。



ここから本題
 しかし、そんなある日、他の浮世絵の富士山を検証するために私が保有している富士山ライブカメラ(https://www.fujigoko.tv/live/)の通年画像のすべてを閲覧中に一枚の画像が目に留まりました。その一枚というのは「富士市茶畑ライブカメラ(所在地:富士市大渕)」の4〜5月分です。以下の画像がそれです。
富士市茶畑から見た富士山
(
https://live.fujigoko.tv/?n=11
     
4月22日 拡大 凱風快晴
 残雪の形状に注意してみてください。
いかがですか?印象的なY字を逆さまにした残雪の形状が北斎の画とほぼ同じ位置に観察できます。これは、つまり北斎の描いた雪形は実際に存在し、「凱風快晴」は富士市付近から見た富士山がモ チーフになっていると考えられます。しかし、今まで富士市から見る富士山が選考に漏れていた原因として、山頂の形状と富士山右に見える宝永火口と山頂の形状が「凱風快晴」の構図と違うこと が挙げられます。この解釈が北斎の富士を難解にしている原因ですが、個人的に北斎のいくつかの作品を俯瞰的に眺め続けた結果分かったことがあります。それ は、「葛飾北斎という人はスケッチの正確性に執着する部分があるかと思えばスケッチ・デッサン集の部品を加工して配置する手法を多用したり、幾何学的デッサンにこだわる、今風に言えば理系人間っぽさがある」ということで、彼の思考回路を理解することで真実に近づけるような気がします。


 葛飾北斎のスケッチ力は非常に優れており、ほとんどの作品で富士山の稜線と残雪は実際の状態に近いと私の中で後に確認されています。したがって、道理に合わ ないスケッチの狂いは当方の解釈に間違いがある場合がほとんどだと今では理解しています。このことは他の作品の中でも追々記述していきたいと思います。

 それでは、以上のことを念頭に置いて「凱風快晴」の検証を続けたいと思います。
  まず最初のヒントになった「ライブカメラに写っている富士山の残雪の位置」ですが、その雪形を正確に山体シミュレーションソフトのカシミールで富士山の沢 に相当する部分に照らし合わせ、雪形と沢の位置関係を特定しました。ちなみに富士山の残雪跡は噴火の噴出物周辺や崩れた瓦礫の跡といった木の無い部分に出 現し、いわゆる沢と呼ばれている部分に筋を残します。
 要するにライブカメラに残された雪型から推定される「凱風快晴」の雪型位置のずれを計算で求め、実際のライブカメラの位置から推定される視点の位置を作図してみます。

1.5月初旬のライブカメラ画像

2.カシミールで合成し沢の正確な位置を把握

3.「凱風快晴」と富士山稜線を無理やり合成

4.雪形のずれの推定値を求める

5.雪形のずれは6〜8度と推定し、ライブカメラ位置との離れを作図する
6.凱風快晴とライブカメラの雪形対応状況

結果、その場所は旧東海道の「静岡県富士市本市場」と「富士川河口」の線上だろうと推定。

コラム:歌川広重
  歌川広重の「吉原山川白酒」という浮世絵が総合庁舎前に掲げられていますが、この画の富士山の構図はまさに北斎の残雪と一致します。東海道間宿(あいの しゅく)本市場は吉原宿と蒲原宿の間にあり、多くの茶屋が建ち並んでいたそうで、「白酒」や「葱雑炊肥後ずいき」などが知られ、広重の画もこの様子だそう です。まずはこの風景を念頭に当時を偲びたいと思います。 

北斎に少なからず影響を受けていた広重がこの画を描いたことで、ますます推定した付近が怪しいと核心を得ます。

 ちなみに広重は「北斎をライバル視して違った画の表現を求めたと」言われていますが、私はむしろ敬愛していたのだと思います。なぜなら、広重は自身が世間に認められるようになってから北斎所縁の地で画を描き始めています。これをライバル視ととるか否かは不明ですが、私は広重が北斎の描いた画の場所を聖地巡礼しているように思えて仕方ありません。今でいうアニメの画の場所を「実際はどうだろう?と写真に収める行為」に似ていると感じるからです。そう、まさにここで行っている行為です。もしかしたら広重の「吉原山川白酒」も北斎の聖地巡礼で発見した場所だと思って描いた」のかもしれません。その証拠に「吉原山川白酒」で描かれた雪形は北斎の「凱風快晴」とそっくりだからです。
広重は「神奈川沖浪裏」の画の場所の痕跡を訪ねて木更津から船に乗ろうとしています。二人の時代が近いので「神奈川沖浪裏」は船上で描いたと知っていたのかもしれません。これは別項でも度々出てくる「北斎は船上から描く癖がある」という私の説を補完していると思われます。

 さてこれまでは残雪の模様からポイントを絞りましたが、実はそのままでは「凱風快晴」の富士山山頂と稜線が一致していません。しかし、雪形の推測に自信がある私はある時に閃いたのです。それは、実際の風景を少し傾けて宝永火口を浮世絵の枠外に追い出したのではないか?ということで、以下の処理を施したいと思います。なお北斎画の特性上、処理画像は予め縦方向に約1.6〜1.8倍に引き伸ばしてあります。

傾けて合わせる
GoogleEarth画を普通に重ねると以上のようになる   時計回りに6度傾け宝永火口を枠外に持っていく

 GoogleEarthでシミュレーションした結果が上図です。いかがでしょうか?全ての要素がピタリと一致しました。北斎の富士山を検証していくと分 かりますが、北斎は宝永火口を描きたがりません(唯一描いた作品は冨嶽百景の中に一枚あります)。それにしても上手い具合に火口を枠外に配置して描いてい ると思います。

 特に富士山の左の稜線に注目すると、起伏がほぼ一致しています。画の左下にある小山の出っ張りは富士山の寄生火山の塒塚(とやづか)です。特定地点を静 岡県富士市本市場に設定するとこの塚は実際の画より大きく見えることになります。よって北斎の画に表現された塚の大きさを検証すると現在の富士川河口付近周辺に限定されると推測できます。もしかして、北斎の見た富士山の視点は当時の富士川河口から海に出た船の上かもしれませんが、ここでは仮定として手ごろな 東海道視点を採用してみます。しかし、他の北斎の作品を見ますと、船上から描いた作品が多くあり、実際の「凱風快晴」は現在の富士川河口 付近の船上から描いた可能性は頭に置いておきます。

カシミールによる富士市視点の考察過程
(現在の静岡県総合庁舎付近)
(2015年当時の考察)

縦方向に1.6〜1.8倍

右に4〜6度傾ける

宝永火口を枠外にする

凱風快晴の完成

コラム:画像変換について
 変換に用いる値は想定されるカメラの画角で多少異なりますが、実際の風景を縦方向に1.6〜1.8倍、時計方向に4〜6度傾けると「凱風快晴」に近くな ります(凱風快晴の北斎加工)。注目すべき点は、「雪形」で位置を計算した視点から見る富士山は「凱風快晴」の富士山とほぼ重なる点です。ちなみに旧東海道上で「凱風快晴」の雪 形とピッタリ一致する点は区間ごとに細かい修正を繰り返した結果、「富士郵便局」の延長線上にあたります(2017年1月現在)。
 また当然のことながら、特定できたのは横方向の位置であり、奥行きには多少のずれがあります。上記までの想定では一般的な「東海道」を想定しましたが、現在の推定では「富士川沖の海上」だと思っています(2017年1月現在)。 

富士郵便局からのカシミールと「凱風快晴」
東海道沿線で雪形・山容の一致度が最も良好な地点と微調整
(2016年当時の考察)

 ここでいったん視点の奥行(富士山からの距離)の検証は保留にしておき、「凱風快晴」の他の部分、富士山のグラデーションと鱗雲に注目してみたいと思います。

 グラデーションの検証には実際のライブカメラの映像を使用するのが確実です。「凱風快晴」を静岡側と仮定するとライブカメラや山岳シミュレーションの結果、画の様子から右から日の光が当たっていると断定できます。つまり、それは早朝だと推定でき、雪形が一致する5月だと日の出(4:46)から30分後の5:10 分ごろの画だとライブカメラの画像からも分かります。

5月11日の色変化

ちょっと分かりづらいか?
 ちなみにこちら(左)は同じライブカメラの2016年7月31日 5:10の画像です。色の変化が分かり易いですね。
この画像からわかるように7月の後半に残雪はありません。しかし、北斎の描いた「凱風快晴」の日の当たり方の検証としては上出来だと思います。
その前に、私が冒頭で否定した「赤富士」の件を北斎がきっちり抑えていたことに謝らなければなりませんね。北斎さん、私が浅はかでした「ごめんなさい」。

  次の検証として、空に浮かぶ通称「鱗雲」は秋のイメージですが、空気の澄んでいる日なら一年中見られる現象です。鱗雲が出ると天気が乱れ、秋の好天が続い た後に台風が近づくと特に印象に残るので、鱗雲は秋のイメージになっているにすぎません。仮に北斎の画のように残雪がここまで残るには積雪がかなりあった 後でなければなりません。つまり、もし秋なら11月中旬以降で、しかもかなりの積雪があった年ではないかと思います。こういった意味でも晩夏説は否定され るべきだと思います。参考写真は富士市茶畑ライブカメラ(2015年5月8日)が捉えた雲の様子です。


この後、傘雲ができて天気が崩れ曇天に。
翌日は小雨がぱらつき、11日に天気回復。

コラム:新名所?
  先に紹介した通り、現在の静岡県総合庁舎には歌川広重の「吉原山川白酒」が掲げられています。もしかすると今後、葛飾北斎の「凱風快晴」も掲示されるかも しれないでしょう。私は当初、山梨の新観光名所を探すつもりで考察をはじめましたが思いかけない結果になりました。偶然にも静岡の人たちと打ち合わせする ときによく使用していた施設がこの総合庁舎なのです。もちろん、富士山頂と現在の富士川河口を結ぶ線上のどこでも視点の候補になりますので、どこか展望の 良い場所を名所にすることを祈っています。

「凱風快晴」と「カシミール」の検証用合成画
(現在の富士川河口、富士川緑地付近)
(2016年当時の考察)

こちらの方がより「凱風快晴」の構図に近くなる。

富士総合庁舎〜富士川河口の間周辺



 最後に傾けて欠けた山頂はどこから持ってきたのでしょうか?
「凱風快晴」の山頂の形を見ると頂が5つ見えます。これは南東から北東の間の特徴で、きれいな等間隔に頂が並ぶ形状は東から見た富士山となります。とすれ ば、北斎が描いた東から見た富士山の画を見れば検証できます。北斎はいくつか東から見た富士山を描いていますが、例として分かり易い「甲州三嶌越」 を見てみます。この画は現在の山梨県と静岡県の県境にある籠坂峠から見た富士山を描いていますが、その山頂を見ると5つの頂が等間隔で書いてあります。全 く同じ形状ではありませんが、富士山の稜線のでこぼこの起伏は下図の「甲州三嶌越」との合成で赤い枠線の範囲でシンクロしています(分かり易いように「甲州三嶌越」の画は一回り大きく富士山の稜線は白く合成してあります)。
 冒頭で記した「凱風快晴」のモチーフは「快晴の不二」ではないのか?という説がありますが、「快晴の不二」の富士山の頂は3つになっています。これは南 東から南西にかけて見える富士山の頂の特徴でもあります(まれに南から見た富士山の頂を4〜5つだという人もいる)。ちなみに南西から北東にかけて富士山 の頂は4つから3つになり、再び東寄りになると一気に5つになります。

 北斎の特性からタイトルに地名が無いものは富士山の部品を合わせた組画であるという私個人の説を補強しています。つまり、富士山山体は富士川沖(江戸時 代でいう田子の浦)と山頂は東から見た富士山頂を合わせた画で、その場合に北斎はタイトルに地名を入れないと思われます。

  「凱風快晴」の浮世絵は私自身が想像したことと違う結果が出ましたが、他の北斎富士でも定説通りではない結果が出ていますので驚きは少なかった印象です。 葛飾北斎を一躍世界の天才に仕立てた「凱風快晴」の富士山ですが、その印象的な「赤富士」というモチーフは現在の評価であり、当時の北斎も摺師も意図して いなかったかもしれません。現在の評価が独り歩きした感がありますが、それでも人々を感嘆させた構図と色遣いは葛飾北斎の名声を落とすことはないでしょ う。

 定説を信じていた人には驚きかもしれませんが、本項が再検証され賛否が北斎研究を進めるきっかけになればと思っています。特に視点と時間が分かれば北斎研究の大きなヒントになることは間違いありません。

 では最後に構図の考察もきちんと行います。
「凱風快晴」の構図は単純で、対角線と1/3点のシンプルな構図です。富士山は縦方向に引き伸ばされていますが、初夏手前の残雪と麓の新緑が鮮やかです。 宝永火口は絶妙に隠され、残雪上部から「1」の方向へ視線を移し新緑を楽しみます。その後、大きくあいた左上空間「2」の雲の一群に思いを馳せます。

 そして、タイトルの「凱風快晴」の文字を見て、柔らかな南風を感じながら富士に思いを寄せます。タイトルに地名が無いことから北斎は富士山の雄大さを感じて欲しかったのではないのでしょうか?
コラム:北斎の画のタイトル
北斎の画を検証してみて不思議な共通点を発見しました。それは「富士山を加工したり描き足した画のタイトルは地名を書かないか変更してある」ということです。今回の「凱風快晴」もそうですが「山下白雨」も場所の特定が難しく、私の検証では富士山を加工してあります。また、「甲州伊沢暁」や「甲州石班澤」は実際に見えない富士山を裾野まで描いているのですが、こちらもタイトルの文字を変えてあります。これらは北斎のポリシーなのでしょうか?

【追記:その後の現地調査の結果】
 実際に現地の画像を当てはめてみました。「凱風快晴」の左下にある山の出っ張りの雰囲気を見る限り、富士川河口付近〜蒲原手前付近が有力で、断定しても良いと思います。
 さらに詳細に詰めるなら富士川河口沖の海上にあたります。
本市場合同庁舎より

北斎加工(縦1.6倍、6度傾け)


左下の小山が大きい
富士川河口緑地より

北斎加工(縦1.6倍、6度傾け)


左下の小山は小さくなった
 机上推論を経て、実際に何度か現地を訪問し「凱風快晴」の視点を考察しました。その心象結果、どうしても「凱風快晴」に描かれている左下の出っ張りの大 きさが気になります。また、数ある「凱風快晴」の異版の中には左下の出っ張りが簡略化されているものも気がかりです。このような考察の結果、「凱風快晴」 は富士川河口沖の海上遠方から描いたと見るのが正解のような気がしてきました。大胆な発想のチェンジです。
もし、「凱風快晴」を海上からの視点だと想定すると「東海道江尻田子の浦略図」の視点がタイトルと違うのではないかという長年の疑問も解けるかと思います(別述)。

 ここでいったん葛飾北斎の「凱風快晴」の総括をします。北斎の画は「デフォルメしてある」とか「構図の想像力」とか言われますが、以上の検証を通して理 解できたことがあります。それは、「細部にわたって見てみると正確なスケッチの積み重ね」で画が構成されており、「デフォルメどころか写実そのもの」では ないかと思えるのです。
この北斎の特性は他の画(他の富士山画)の視点場所の検証に大きく役に立ちます。つまり現在、北斎の描いた場所が不定とされている画の視点場所も「精密な スケッチで構成されているはず」で、見つけられないのは「その組み合わせを私たちが発見できない」からなのです。北斎の時代も私たちの時代も富士山に変化 は無いとすると必ずどかに同じ景色があるはずだと信じることができます。そういった意味で「凱風快晴」は北斎画の謎を解く鍵の第一歩になった貴重な経験で もありました。

 以上、これらのことは「甲州三坂水面」や「山下白雨」、はたまた「甲州伊沢暁」や「甲州石班澤」などの検証でもいかんなく発揮されました。その検証は他頁で。

コラム:葛飾北斎の特殊能力
 「凱風快晴」の画を検証した結果一つだけ分からないことが出てきました。それは、日の光の当たり方があまりにも正確過ぎるため「いったいどうやって記録 したのだろう?」ということです。一般的に富士山の稜線や雪形は白黒の墨で紙に記録できますが(それでも雪形の細部まで正確なことは驚きではある)、日の 当たり方は面とグラデーションで記録しなければなりません。まるで写真で記録したように正確なのです。
 他の北斎作品の中でも時折特殊能力が見受けられます。例えば「神奈川沖浪裏」の中では瞬間を切り取る能力、さらに時間経過を分割する能力、「甲州三坂水面」の中では時空経過を一つにまとめる能力、「山下白雨」の中では大胆な視野転換能力、などなどです。
 ここで一つの仮説が現実味を帯びます。それは「北斎はサヴァン症候群、あるいはアスペルガー症候群なのでは?」ということです。ご存じない方もいると思 いますが、この症候群の人の中のには見たものを後日そのまま再現できる能力の人がいます。しかも普通の再現能力ではなく、写真と見違えるほどの正確性を もって画を描く人もいます。例として正確な作風と違いますが、山下清さんはこの症候群だったと言われています。
 葛飾北斎は自身に興味のないものには無頓着な奇人だったと言われています。冒頭示した彼の理系的こだわりや細部にわたる再現性はもしかすると…と思わざるを得ません。
追記:
「NHK歴史探偵」出演時には本コラムに注視し、北斎の凱風快晴は「富士山の色の変化をグラデーション表現した時間経過を含んでいる」とのTV向けな結論としましたが、実際に考察を重ねると特に早朝でなくても凱風快晴の画のような色合いが常に発生することを現地の観察から確認しております。
ポイントは山頂付近の色合いのほうが暗くなっている点にあります。これは絵の中にある鱗雲が大きなヒントとなり、具体的には以下のような状態のときに「凱風快晴」のような色表現になります。そして、それは多々観測され特別な気象現象ではないことも記しておきます。
上図は朝日または夕日の状態を模しています。左の円錐を富士山、土台を地球、上部の立体を雲として見てください。例えば朝の場合は富士山上部から日が当たり富士山下部に向けて徐々に日が当たります。夕方の場合はこの逆です。「NHK歴史探偵」ではこの時間経過の様子を画に表現したグラデーションとしました。
 しかし、画に表現された色遣いの可能性は上図のように雲が陽の光を遮る場合です。つまり、この図式のような状態になると富士山上部は影で暗くなり、山腹にかけてグラデーションのように赤くなります。そしてこの状態の自然現象は良く見られる光景でもあります。特に「凱風快晴」のような雲がある場合は出現しやすい。

富士市2021年1月21日16:41

富士市2021年1月21日16:42
上画像は左方向にある雲が動いており、その影が山頂に落ちている様の前後です。1分後に影が上方向に動いています。ちなみに、この定点観測1ヶ月間で山頂に影のある同様の現象が見られた回数は4回以上ある。つまり、「凱風快晴」のグラデーションは時間経過の表現と言うより見たまんまの風景と考える方が自然であると思われる。

「凱風快晴」の視点は富士川河口付近のスケッチを傾けた画と(100%)断定し、
河口を離れ海上の可能性が限りなく高いと想像できます。
 想像してみる。季節は5月初旬の早朝(あるいは夕方)、前日までの晴天も今日から天気が崩れるのか鱗雲が空を覆ってきた。しかし空はまだ高く、(日の出間もなくなので) 田子の浦から江尻に向かう船上からは富士川河口が作り出した平野の向こうに日に染まった富士山を見る。その時一陣の南風が北斎の頬をなで筆を運ばせた。

 いかがでしょうか?山梨側の山国の風景から静岡側の海上風景へ、木々が落ち着き始めた晩夏から新緑の初夏へと、今まで抱いていた画のイメージとだいぶ違 いますね。北から見る富士山の赤富士という現象にこだわると夏〜秋の早朝の富士山のイメージですが、南(富士市周辺)から見た場合なら初夏の日が昇って少 し経った時か夕方の時間帯ですが、先の検証の結果、「凱風快晴」は右から日の光が当たっていますので早朝だと断定できます。

5月の富士川河口(桜エビの天日干し)

現在の富士川河口と駿河湾

田子の浦←→江尻の海路風景

北斎の「東海道江尻田子の浦略圖

歌川広重の描いた江尻(清水港)から見た富士山(中央の松林は三保の松原)。
江戸時代に航路が開けていたことを良く表しています。
 

2017年1月現在の最新推定視点位置
富士山山頂と富士郵便局の線上に位置する富士川河口沖3〜3.5Km
緯度 35 05'10.91" , 経度 138 37'40.67"
レンズ50mm撮影画像を縦に1.65倍、時計回りに4.5度傾けた画像が「凱風快晴」で、
5月中旬の早朝5時ごろと結論付けられます。
   
  追記
  2017年4月21日放送の「NHK歴史秘話ヒストリア」にて検証を行いました。
 

考察地点に船をチャーター

井上あさひアナウンサーと船上にて

母の白滝にて撮影風景
  というわけで、個人では実現困難だった富士川沖に船をチャーターして考察ポイントで富士山を撮影してきました。機会をくださったNHKさんには感謝です。
 

 
  撮影時期が早かったため残雪が多く雪形は観察できませんでしたが、山体はピッタリ一致しました
   
  追記2
  2021年4月21日放送予定の「NHK歴史探偵」にて解説を行いました。
 

青井実アナウンサーと富士川河口

母の白滝にて撮影風景

富士市市役所にて撮影風景
 
富士川河口の夜明け(2020年12月10日)
 
富士市市役所より2021年1月の4K動画
(NHK歴史探偵出演の際に提供した動画)
 

 
  縦1.7倍、右傾き6.44度(検証図は「凱風快晴」の初版に近い版を使用)
  以上のように2021年1月に富士市市役所の協力を得て1カ月に及ぶ定点観測を行いました。その結果、定点観測によって雪形としては珍しく2021年の1月は通常みられる5月中旬以降の雪形が現れた。この雪形の検証を見る限り、「凱風快晴」は富士市から描かれたことに疑いはない。
しかし、富士市市役所(旧吉原付近)では雪形にズレがあり、地図上で言うともう少し左の位置から富士山を眺めたであろうと思われる。よって、富士市本市場の線上に位置する富士川河口沖説の補間に成功した。
  2度までも検証の機会を与えてくださったNHKさんには感謝いたします。
   
  コラム:場所を特定する意義
 北斎の「凱風快晴」の場所はほぼ特定できました。ここで富士山の視点を特定する意義を私なりに説明したいと思います。
 従来の「凱風快晴」の富士山指定位置は、三ツ峠山〜山中湖が大勢を占めていました。これは富士山の赤富士を根拠に、季節は晩夏〜秋口の早朝、台風の来る前の瞬間的な快晴という意味付けがされ、さらに北斎は三ツ峠に登山していることにもなります。ところが、本項で「凱風快晴」の富士山位置が特定されると、晩春〜初夏の早朝で海上を移動中に描いたということになり、北斎の道程や画の雰囲気も違って見えます。つまり、北斎研究にしても浮世絵研究にしても解釈に大きな違いを生むことになります。
 不明部分の珍説はあっても良いと思いますが、事実に近づく珍説であったり研究が進まないと意味を成しません。そしてその事実は残された書物や画の中にヒントの一端があり、ならば、せめて画の中の事実を追求しなければなりません。何故なら描かれた富士山は今も同じ形で存在している唯一の証拠になるからです。それなのに従来の研究家は描かれている富士山の検証をきちんと行っていません。心象であったり、おおよそであったり。繰り返しますが、「凱風快晴」が晩夏なのか初夏なのかで画の解釈は違うのです。北斎が山で描いたのか海で描いたのかで解釈は違うのです。
 他の画も含めて、今一度「北斎の富士山がどこで描かれたのか?」に注目し、北斎研究が進むことを願います。そのためには誤った視点位置の信仰を捨てる覚悟も必要だと思います。
   
  最後に
 実際は船で移動しながら描いているので富士山稜線の凹凸は田子の浦〜蒲原沖までを網羅した、「甲州三坂水面」と同じ手法の時間軸を同時に見える形状になっています。このことからも北斎は船で移動しながらスケッチしたと思われます。
後の考察は北斎の行程順路(江尻←→田子の浦または伊豆方面)が推定できます。ポイントは「北斎は船で移動した」ということで、今までの概念を大きく進展できる考察結果となりました。
 
ちなみに「山下白雨」の左下の山並みもほぼ同位置からのスケッチとなっています。
 以下にここで行った検証結果の一致度を参考資料として掲載しておきます。異論のある方大歓迎
 
また「神奈川沖浪裏」の波に隠れている富士山はここからのスケッチとなっています。
 
特徴のある山体の凹凸と沢による雪形を検証してあります
 
200年の謎は私が解いたよ北斎さん
 

絵・写真・動画・文:久保覚(富士五湖TV)
資料:国立図書館・国土地理院・wikipedia
使用ソフト:カシミール・GoogleEarth
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