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コレクション展 富士山いろいろ 秋

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アルフォンス・ミュシャ

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小磯良平 挿絵で辿る聖書の旅

富士フォトギャラリー新宿

櫛・簪の美

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ヴィック・ムニーズ ピクチャーズ オブ ペーパー

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展覧会のご案内

第12回 富士山写真大賞展

Rey Camoy 玲没後25年 鴨居 玲 終わらない旅

展覧会のご案内

 

2018年6月15日03時19分


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■ 会期 ■
2018年 6月16日(土)−9月2日(日)
&#9829;会期中無休 
■ 主催 ■
河口湖美術館
■ 後援 ■
チェコ共和国大使館/チェコセンター
■ 出展協力 ■
OZAWAコレクション/OGATAコレクション
■ 企画協力 ■
M&M color/文化企画
クリスマスの出来事。印刷業を営むルメルシェ氏のところに、大女優サラ・ベルナールが主演する年明けすぐの舞台のためにポスターを制作してほしいと急な注文が舞い込んできた。ところが祝祭の休暇で工房には画工が誰もいない。いるのは休んだ同僚の代わりに校正の作業をしている青年が一人。彼は有能だし絵も上手いけれどポスター制作の実績はあまりない。それでもこのさい仕方がない、ボツにされるかもしれないが彼にやってもらおう。スケッチブックを携えて劇場へ向かわせ下見と打ち合わせ。下絵に彩色した原案スケッチを劇場側スタッフに提出して返事を待つことになった。28日、劇場側から連絡が入った。サラ・ベルナール本人がこのスケッチをいたく気に入った、元日には街に貼り出すのですぐとりかかってほしい、と。このポスター「ジスモンダ」が大評判を呼んで芝居も盛況、無名の青年ミュシャは一夜にして時代の寵児となり、サラ・ベルナールと向こう6年間の専属契約を結ぶことに...。このシンデレラストーリー、ちょっと脚色が感じられなくもないエピソードですが、こんにちも高い人気を誇るアルフォンス・ミュシャの出世の第一歩が大女優との幸運な接近によってもたらされたことは事実のようです。
ヨーロッパを中心に国際的な展開を見せた当時の新しい芸術”アール・ヌーヴォー”の潮流の中で、グラフィックアートの分野で最も重要な作家のひとりとして同時代のみならず後世にも大きな影響を与えたミュシャ。本展はポスター、装飾パネル、パッケージデザインをはじめ切手や紙幣など、多岐にわたる作品や資料約400点を展示いたします。
アルフォンス・ミュシャ
Alfons Maria Mucha 1860-1939
オーストリア帝国領モラヴィア(現在のチェコ共和国)に生まれる。10代初めは聖歌隊の一員だったが思春期の頃中学校をやめ地方裁判所で書記として働いた。
1877年プラハで美術学校受験に失敗。19歳の時ウィーンに出て舞台制作の工房で働きながら絵を学んだ。
1885年25歳のとき支援者を得てミュンヘンに学び、その3年後パリでアカデミー・ジュリアンに学んだ。挿絵画家、グラフィックデザイナーとして生計を立てつつサロンに出品するなどしていたが、1895年、女優サラ・ベルナール主演の舞台「ジスモンダ」のポスターで注目を集め一躍有名作家となった。デザイナーとして数多くのポスター、装飾パネル、パッケージデザインを手がけ、フ
ランス、アメリカなどにおいて輝かしい成功をおさめたが、いっぽうで自身スラブ人であることの民族意識をいよいよ強く覚え50歳のとき祖国に帰国。新国家チェコスロバキア共和国のために紙幣や切手、国章などをデザイン、またテンペラと油彩による畢生の大作「スラブ叙事詩」を制作した。19世紀末から20世紀初頭にかけての芸術思潮アール・ヌーヴォーにおける代表的アーティストのひとりとされる。